持統天皇

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称制

686年に天武天皇が崩御すると
皇后のウ野讃良皇女が即位しないまま
称制を行います。

天武・持統天皇陵
天武・持統天皇陵

天武・持統天皇陵
天武・持統天皇陵

天武・持統天皇陵
天武・持統天皇陵

「いずれはわが子草壁を天皇に…」

しかし草壁皇子が即位するには
心配事がありました。

先帝と讃良の姉大田皇女(おおたのひめみこ)
との間に生まれた大津皇子です。

草壁皇子と大津皇子
【草壁皇子と大津皇子】

大津皇子は才覚すぐれ、威風堂々、
また皇子でありながらへりくだった謙遜な態度で
人に接し、周囲からの信望厚いものがありました。

一方、草壁皇子は病弱で、
線が細い感じだったようです。

誰の目にも、後継者としてふさわしいのは
草壁皇子より大津皇子のほうに思えます。

(これではいけない。なんとしても大津皇子を排除しなくては)

讃良がそう考えるのは、自然な流れでした。

大津皇子の変

686年10月2日、大津皇子の親友である川島皇子が
讃良に密告します。

「大津皇子は謀反を企てています」
「なんと!それはまことですか」

讃良は即刻、大津皇子の舘に軍勢を差し向けます。

大津皇子は一味の者30名とともに捕えられ、
翌10月3日、訳語田(おさた)の自宅の庭で
絞首刑にされました。

「あああ!あなた!」

知らせを受けた妃・山辺皇女(やまのべのひめみこ)は
髪を振り乱し裸足のまま駆けつけ、夫の遺体に取りすがり、
殉死しました。

ももづたふ 磐余(いわれ)の池に 鳴く鴨を
今日のみ見てや 雲隠りなむ

(磐余の池に鳴く鴨を見るのも今日が最後で、
私は死んでいくのだろうか)

『万葉集』にある大津皇子の辞世の歌です。

この事件は讃良の謀略であろうという見方が有力です。

わが子草壁皇子を皇位につけるため、
障害となる敵を廃除したものと思われます。

草壁皇子の死

(大津皇子に気の毒なことをしました。
しかし、草壁を即位させるには仕方なかったこと…。
とにかく草壁さえ天皇になってくれれば…)

しかし、そうまでしたにも関わらず
草壁皇子は28歳で早世してしまいます。

讃良の落胆はどれほどのものだったか…
『日本書紀』には一切記されていませんが、
想像するに余りあります。

人々は噂しあいました。

草壁皇子が亡くなった?そりゃあ
大津皇子のたたりだろうと。

持統天皇 即位

わが子草壁を失った讃良は今度は草壁皇子の子、
わずか7歳の軽皇子を後継者に定めます。

草壁皇子と軽皇子
【草壁皇子と大津皇子】

「あなたが次の天皇となるのです。
これからは、よくよくしっかりしないと、いけませんよ」

「あっ、はい、えっと…」

「大丈夫。おばあちゃまの言う通りにすれば、ぜんぶ、
うまく行きますからね」

690年、讃良は孫の軽皇子が即位するまでつなぎという形で
自ら天皇として即位します。

第41代 持統天皇です。

持統天皇の政治

持統天皇は太政大臣高市皇子の補佐を得て、
数々の政治事業を行います。

飛鳥浄御原令

689年、まだ即位する前の称制時代、
夫天武天皇から引き継いだ
飛鳥浄御原令を完成させます。

全22巻からなる
日本発の本格的法典で、後にこれをもとに
「大宝律令」が作られます。

庚寅年籍

690年、庚寅年籍(こういんねんじゃく)と呼ばれる
全国規模の戸籍を整理します。

民衆に支給される口分田を決める際の基本台帳となり、
これにより税制が確立しました。

藤原京遷都

694年、都を藤原京に遷します。中国の長安に習い、
東西の通り(条)と南北の通り(坊)が碁盤の目のように交差する、
日本発の条坊制都市でした。
天皇が代わるごとに都が遷されるこれまでの習慣も取りやめとなり、
以後、代々の天皇は同じ都で政治をとり行う形となりました。

≫次の章「藤原京」

解説:左大臣光永

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