治承三年の政変

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発端

後白河法皇は鹿谷事件の失敗にこりず、
平家を経済的に追い詰める策に出ました。

治承3年(1179年)6月、
清盛の娘で近衛基実の未亡人盛子が亡くなります。

盛子は摂関家領の大部分を夫から相続していましたが、
その盛子がなくなった場合、当時の常識では
氏の長者領を基実の弟である関白松殿基房にわたし、
ほかの大部分は基実の子の基通以下に分割相続させるのが
当然でした。

近衛家と松殿家
近衛家と松殿家

しかし後白河法皇は強引に所領のすべてを 取り上げ、院の領土としてしまいます。

近衛家を保護する立場にあった清盛は、 面目丸つぶれです。

翌7月、清盛の長男重盛が亡くなります。
すると法皇は重盛の子維盛が相続していた越前の領土を没収します。

また後白河法皇は清盛の意見を無視した人事を行います。
中納言のポストに欠員が出たとき、清盛の孫にあたる
二位の中将近衛基通(ふじわらのもとみち)を無視し、
関白基房の嫡男でわずか8歳の
藤原師家(ふじわらのもろいえ)を任命します。

近衛家と松殿家
近衛家と松殿家

平家一門が近衛家と結びつきが深く、
松殿家と結びつきが無いことを見て、
わざと松殿家の師家をすえてきたのです。

あからさまに、清盛を無視した人事でした。

「ぐぬぬ…もう許せぬ!」

清盛は隠居して福原の別荘に移っていましたが、
11月14日、突如3000騎の軍勢をひきつれて、京都に押し寄せます。

「戦だ、戦になるぞ!」

市民は合戦の始まるのを恐れて
資材を東へ西へ運び出しました。

入京した清盛は、関白藤原基房をやめさせ、
その子師家の官を解きます。

基房は大宰権帥に落とし、
師家は尾張に追放します。

さらに、太政大臣藤原師長、権大納言資賢(すけかた)以下、
検非違使藤原信盛(のぶもり)に至るまで
39名(「平家物語」では43名)を罷免。

平家一門の関係者をもって、これに変えます。

「なんと!清盛が!」

さすがの後白河法皇も、これには仰天されます。
すぐに静賢法印(信西の子)を清盛のもとにつかわし、

「以後、政治向きのことは一切かかわるのを
やめる」

二度まで、そう訴えましたが、無駄でした。

20日。

清盛は法皇を鳥羽の離宮に幽閉します。

法皇はやむなく車に乗せられ、京都南方、
鴨川と桂川が合流するあたりの鳥羽離宮に移されました。

「ああ!法皇さま!お痛ましいこと」

人々は嘆き悲しみました。身の回りには、
わずかなお供しか近づくことは許されませんでした。

畏れ多くも法皇さまが、臣下にすぎない平家によって
身柄を拘束されるという、前代未聞の事件でした。

治承三年の政変と呼ばれるこの事件により
後白河法皇の院政は停止させられます。

その上清盛は後白河法皇とその近臣たちの領土を没収し
平家の領土としました。

結果、
全国の平家知行国は30か国まで膨れ上がり、
平家一門は軍事独裁政権ともいうべき、
巨大な権力を手に入れることになりました。

政変後、清盛は孫である言仁親王の即位を急ぎ、
翌年の2月、安徳天皇が即位します。

高倉天皇は慣例にしたがって院政を行うことになりましたが、
あくまで形式上のことで、実質は清盛の独裁政治でした。

つづき「以仁王の乱

解説:左大臣光永

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