細川忠利の熊本入り
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おくのほそ道 現代語訳つき朗読
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月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老をむかふる物は、日々旅にして旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。
松尾芭蕉『おくのほそ道』を原文と現代語訳で朗読し、詳細な解説を加えたものです。
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本日のメルマガは、「細川忠利の熊本入り」です。寛永9年(1632年)、細川忠利が小倉藩から移封される形で肥後54万石の領主として熊本城に入りました。その前後の事情について語ります。
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家光治世始めの御法度
寛永9年(1632)正月、二代将軍徳川秀忠が江戸城西の丸にて亡くなります。すでに秀忠は息子の家光に将軍の位を譲っていましたが、秀忠が死んだことにより、いよいよ本格的に三代将軍・家光の時代に入っていきます。
家光がその治世のはじめに行ったことは、肥後54万石の大名・加藤家の改易でした。
同年5月22日、
加藤忠広は江戸入府の途上、品川宿にて止められました。
品川宿
「いったいこれは何事でござりますか」
「まずは、池上本門寺に参られよ」
池上本門寺で、加藤忠広は、予想だにしなかったことを告げられます。
池上本門寺
「加藤家の改易を言い渡す」
「な!それは何かの間違いでは!!」
いくら忠広が弁解してもダメでした。結局、加藤家は改易となり、加藤忠広は出羽庄内藩士・酒井忠勝にお預けとなりました。
2日後の5月24日、徳川家光は伊達政宗・前田利常・島津家久・上杉定勝・佐竹義宣の五人を江戸城に呼び、加藤家の改易を告げました。
家光の言う加藤家改易の理由はこうでした。
一つ。加藤忠広の嫡男・加藤光広は諸大名の花押のある謀反の連判状を作ってもてあそんだ。
一つ。加藤忠広は江戸で生まれた息子とその母を無断で国元に返した。
また、この前年より加藤忠広は、「狂気」の噂を諸大名より立てられていました。
家光はその噂につけこみ、自分の治世の始めに豊臣系の大大名である加藤家をつぶすことで、諸大名への力のアピールをしようとしたようです。
その後、加藤忠広は出羽国丸岡に一代のみの一万石を与えられ、家臣20名ほどともに住まい、22年後に没しました。その間、加藤忠広は歌を詠み管弦の遊びに興じ文学を愛好し、風流三昧の暮らしを送ったようです。
加藤家なき後の肥後には、小倉から細川忠利が移ることとなりました。
細川忠利の熊本入り
寛永9年(1632年)、細川忠利は肥後54万石の城主として熊本城に入りました。それ以前の細川家は豊前小倉藩39万石の城主でしたが、加藤家が二代で取り潰しになったため、熊本に移ることとなりました。
しかしこれは頭の痛い問題でした。なにしろ熊本は治めにくい。俗に「肥後もっこす」といい、熊本人の気質はガンコでひねくれています。
天正15年(1587)佐々成政は豊臣秀吉の命で肥後に赴任しましたが。うまく治められず、一揆が多発し(肥後国一揆)、そのため、切腹に追い込まれました。
とにかく熊本は治めづらい。幕府でも誰を行かせるか、迷いましたが、
細川忠利ならやってくれるだろうと、寛永9年(1632年)、小倉から熊本に移封されることになった細川忠利。困りました。
「どうしたら熊本の民を怒らせず、うまく熊本の地を治めることができるのか」
そこで徹底した調査を行なった所、とにかく熊本の人は加藤清正公を、慕っている。加藤清正公を立てればよいということが、わかりました。
細川忠利は行列をなして小倉城を出発し、豊前街道を南下して山鹿温泉で一泊。
山鹿 豊前街道
いよいよ熊本に入る。その行列の先頭には、加藤清正公の位牌を高々と掲げていました。
「なんが細川か!小倉から来とってから、熊本ば治められるわけがなか」
「おりゃ清正公以外のゆうこた何も聞く気は無か」
そんな感じでイキリ立っていた熊本の人たちも、細川忠利公の行列を見て、
「あら、こりゃちょっと様子が違うっちゃなかと」
「案外よか殿様かもしれんばい」
ははーっと思わず平伏してしまう。
そして、熊本城に着くと、細川忠利、まずは熊本城の大手門の前で籠から下りて、
熊本城 天守(再建中)
「慎んで肥後五十四万石の領地を拝領いたしまする」
高らかに宣言。ついで、天守から加藤清正公のご遺体のおさめられている中尾山の方をうち見やり、
本妙寺 浄池廟
「今回不思議な縁でこの城に入ることなりました。どうか清正公、お守りください」
と挨拶をしました。
「こりゃ~大した殿様ばい」
「清正公にはかなわんばってん、それなりによかっちゃなかと」
反発を感じていた旧加藤家の家臣や熊本人たちも納得し、細川の治世は安定したものになりました。
その後も細川忠利は何かにつけて加藤清正公を立てる。加藤清正公がやりかけていた治水工事も引き継ぎ、いちいちそのたびに加藤清正公に対する感謝を捧げました。
また細川忠利は自分が加藤清正を立てるだけではなく、「清正公を立てよ」と遺言したので、代々の細川氏も清正公を立て、うまく熊本の地が治まった、ということです。
再発売
おくのほそ道 現代語訳つき朗読
https://hosomichi.roudokus.com/CD/
月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老をむかふる物は、日々旅にして旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。
元禄ニ年、四十六歳の松尾芭蕉は門人河合曾良と共に『奥の細道』の旅へ出発しました。深川の庵を出発し奥羽、北陸を経て美濃の大垣まで全行程約600里(2400キロメートル)、日数約150日間にわたる壮大な旅です。
それは西行、能因といった「古人」の魂に触れる旅であり、ロマン溢れる歌枕の地を訪ねる旅でした。
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おくのほそ道 現代語訳つき朗読
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本日も左大臣光永がお話しました。