源頼朝と鎌倉

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畠山一族の投降

10月4日、武蔵にいた頼朝のもとに、畠山重忠、川越重頼、江戸重長ら秩父党の面々が投降してきました。

秩父党は頼朝の挙兵を支持した三浦一族と対立し、由比ガ浜で合戦、つづいて三浦一族の拠点である衣笠城を攻め、長老である三浦義明を自害に追い込んでいました。

その、敵であった、平家方であった秩父党の面々が、投降してきたのです。とりわけ三浦義澄にとってはつい先日父義明を秩父党によって討たれた恨みの相手であり、とても許すわけにはいきませんでした。

しかし、頼朝は座敷に三浦党と秩父党を目が合うように向かい合わせて、さとします。

「今後、頼朝に従うのであれば、秩父党に対する恨みは忘れなければならない」

頼朝は、自分と主従関係を結ぶには武士団相互の敵対関係は捨てよと求めたのでした。とはいえ、父を殺された恨みを、そう簡単に捨てられるものではなかったでしょう。くっ…わかりました。今後、秩父党とは協力しあいます。畠山殿、今後よろしく申す。お、おう…などと言いつつ、

やはり水面下では三浦、畠山の対立は続いていたようで、後年畠山重忠が鎌倉幕府に対して反乱を起こしたとき、まっさきにこれを鎮圧にあたったのが三浦一族でした。

佐竹攻め

富士川の合戦で平家軍を撤退させた頼朝は、このまま京都に攻め込もうと意気込みます。しかし、「待った」と頼朝を制したのが、千葉常胤、上総広常、三浦よしずみらです。いまだ東国にも従わない勢力は多く、また鎌倉の守りとて十分ではありません。今は鎌倉に戻り、東国の地固めに専念すべきですと。うむ。そのほうらの言うとおり。頼朝は素直に従います。

「東国にもまだ従わない勢力が多い」という、その筆頭が、常陸の佐竹氏です。佐竹氏は大勢力を有しながら、頼朝にいまだ従っていませんでした。しかも一族の佐竹隆義(たかよし)は京都にあって、平家に従っていました。しかも佐竹氏は奥州藤原氏に通じており、後々頼朝をおびやかしかねない勢力でした。

しかし、上総広常・千葉常胤らが「佐竹を攻めましょう」と提案したのは、自分らが相馬御厨の領有をめぐって佐竹氏と対立してきたためで、今回の頼朝挙兵の勢いに乗って、一気にたたき潰そうという考えでした。

このように、房総半島の豪族たちが頼朝に従ったのは、必ずしも義憤や、源家累代の家人であったという情緒的な理由だけでなく、目の前で対立している敵を頼朝の力で倒してもらえるならという、打算がありました。

「まずは佐竹をつぶす!」

10月23日。相模国府(現神奈川県大磯)に入り、石橋山以来の戦いの論功行賞を行うと、27には鎌倉に入り、佐竹攻に出撃します。

佐竹氏の拠点である金砂(かなさ)城をあずかるのは、佐竹隆義の次男・佐竹秀義です。父の留守を命がけで守らんと奮戦しますが、叔父の佐竹義季(よしすえ)が、つきあいきれんと陣を抜け出し、頼朝方に内通します。これにより頼朝方に有利となり、金砂(かなさ)城は落城。佐竹義秀義は城に火を放ち、奥州花園まで落ち延びていきます。

もっとも佐竹秀義も後には降伏し、頼朝に従っていますが。

この佐竹攻めでもっとも働いたのが上総広常でした。上総広常は以前から佐竹氏とは所領争いで対立しており、この機会に積年のケリをつけようという個人的な打算もあったのです。必ずしも頼朝に心から心酔して従ったわけではありませんでした。

戦後、佐竹攻めによって得た領土は、戦った武士たちへの恩賞として与えられました。また、佐竹氏の背後にあった頼朝と敵対していた新田義重(にったよししげ)と志田義広(しだよしひろ)がかなわじと見て投降してきました。頼朝はこれを許し、自軍に加えました。

このように頼朝は敵が投降してくると手厚く遇することがほとんんどでした。ただし石橋山で敵対した大庭景親は、即刻処刑しています。

鎌倉の館 完成

鎌倉は代々源氏と結びつきの強い土地です。

そもそも昔をさかのぼれば、源頼信が房総半島でおこった平忠常の乱を平定した際、その武力にほれこんだ平直方が、自分の娘を頼信の息子頼義の嫁とし、鎌倉の館を与えました。これが源氏と鎌倉の関係の始まりです。

頼信の息子の頼義は、奥州で起こって前九年合戦に出陣するにあたり、根拠地河内国の八幡宮と京都の石清水八幡宮に戦勝祈願をしました。

そして見事勝利できたので、感謝を表して源氏の東国進出の拠点であった鎌倉に八幡宮を勧請しました。これが鶴岡八幡宮のもととなったもので、由比ガ浜近くに建てられました。現在、元八幡として、住宅街の中に小さな神社があるのがそれです。近くでは芥川龍之介が住んでいたことがあります。

10月15日。

鎌倉の大倉御所が完成し、頼朝が館入りする儀式が行われます。最初の御所は、現在の鶴岡八幡宮のすぐ東にありました。

列席した武士たち311名。邸宅内の座敷に二列に分かれて対座し、侍所別当和田義盛が一人一人名を呼びあげ、記帳します。

「われら一同、鎌倉殿の御家人として、誠心誠意、お仕えいたします」
「うむ、ご苦労」

名実ともに、頼朝が関東武士団の主であり、鎌倉の王であること。御家人たちは頼朝を主として仰ぐことの宣言でした。

その後、寿永元年(1182年)若宮大路が整備されます。文治元年(1185年)には平治の乱で討たれた源義朝を供養して勝長寿院の供養が行われます。

その間、御家人たちも鎌倉市中に館を建造していきます。といっても鎌倉に常住したわけではなく、あくまで本拠地は故郷にあって鎌倉滞在中は鎌倉の館に滞在する、というものでしたが、こうして頼朝を頂点とした御家人たちの結びつきが強まり、鎌倉は「武士の都」「源氏の都」としてのありようを、強めていきました。

つづき 平清盛の死と木曾義仲の挙兵

解説:左大臣光永

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