徳川吉宗(三)八代将軍就任

飛鳥山公園(東京都北区)
飛鳥山公園(東京都北区)徳川吉宗が築いた行楽地

家重誕生

正徳元年(1711)12月。江戸赤坂の紀州藩邸にいた吉宗に男子が生まれました。幼名長福丸(ながとみまる)。後の九代将軍家重です。母は側室のお須磨の方。紀伊家の家臣大久保忠直の娘です。

翌正徳2年(1712)2月、吉宗は嫡子長福の初参りをすませると、和歌山に帰国しました。

家宣から家継へ

同年10月14日、将軍家宣が死去します。享年51。墓は芝増上寺にあります。

新井白石の提案により、家宣嫡男・鍋松が次の将軍となります。

翌正徳3年(1713)3月26日鍋松元服。4月2日。征夷大将軍の宣下を受けました。七代将軍徳川家継の誕生です。わずか4歳でした。

家継時代の吉宗

家継が将軍となった正徳3年(1713)は、和歌山にいた吉宗にとっても慌ただしい年となりました。

長福を生んだ側室お須磨の方が再度、懐妊。9月、生まれてきた男児はしかし早世してしまいます。そしてお須磨も、お産の苦しみから、死んでしまいました。

「長福丸…もう私にはお前しか残されていない」

吉宗の愛情は三歳となった一人息子・長福にいよいよ注がれました。

正徳5年(1715)3月、吉宗は和歌山を後に江戸に向います。同年5月、日光東照宮に参詣。家康公の百回忌に参加するためでした。

粛々と行われる家康公百回忌の法要の中、吉宗は、自分も家康公の血を受けている。そのことを強く自覚したことでしょう。

同年11月、次男小次郎誕生。後の田安宗武です。母は側室のお古牟(こん)の方。この田安宗武は後に、御三卿の一つ・田安家の祖となります。

八代将軍就任

正徳6年(1716)将軍徳川家継は風邪をこじらせて肺炎となり、危篤状態に陥ります。

家継には子供はもちろん弟もいませんでしたので、直系の血筋が途絶えるのは確定となりました。

「すわ一大事!」

急遽、赤坂の紀州藩邸に使者が飛びます。その時、吉宗は庭で弓を射ていたところでしたが、

「うむ」

すぐさま正装して家臣を引き連れ、江戸城に登城しました。紀州藩邸では、「上様が危ない」という情報を事前につかんでいたようで、行動はスムーズでした。

やや遅れて、水戸徳川家当主・綱條(つなえだ)が、ついで尾張徳川家当主・継友(つぐとも)が登城します。

御三家

また老中、側用人以下、幕府重鎮たちも集まりました。

「さて、幼少の上様には跡取りはございません。また弟君もございません。もはや、御三家の中から次に将軍を出すほかございません。さて御三家のうち、誰に…という問題ですが」

御三家とは、徳川家康の九男義直を祖とする尾張徳川家、十男頼宣を祖とする紀伊徳川家、十一男頼房を祖とする水戸徳川家のことです。

家康は将来、将軍家の直系が絶えたときのために、あらかじめ御三家という仕組みを作っていました。その中でも尾張徳川家は筆頭であり、ふつうに考えれば尾張徳川家の徳川継友が次の将軍になるべきところでした。

しかし老中や江戸城詰めの大名たちはこぞって紀伊徳川家の吉宗を推します。

「冗談ではございません。私などとても。ここは尾張徳川家の継友殿が、家格からいっても妥当でしょう」

吉宗は辞退します。

「いや、家格云々のことをおっしゃるのであれば」

老中たちは言うのでした。

綱友公は尾張徳川家の六代目。対して吉宗公は紀伊徳川家の五代目である。なので吉宗公のほうが家康公に近い。たとえ尾張徳川家が家格としては上としても、ここは吉宗公が継ぐべきだと。

のみならず、綱友はまだ若く、尾張徳川家当主としての経験も浅いものでした。対して吉宗は財政難の紀州藩を見事立て直した実績があります。その手腕を買われたということもあるでしょう。

「しかし…」

吉宗はまだ決めあぐねていました。ところに、天英院の鶴の一声がかかります。天英院は六代将軍家宣の正室で、当時大奥でもっとも影響力を持つ女性でした。その天英院が吉宗を大奥に招き、

「吉宗よ、将軍を後見せよ」

七代将軍家継を後見しなさいと。これはつまり、「次の将軍になれ」という意味でした。吉宗はさらに辞退します。すると天英院は声高に

「辞退あるべからず」

そう言ったので、吉宗もついに受けました。大奥を退出した吉宗の手を水戸の綱條が取って、

「天英院のお考えにまかせるべきです」

と、上座をすすめました。そこで綱條(つなえだ)と継友(つぐとも)は刀をはずし吉宗に平服して、挨拶しました。吉宗は「そのままに」といって辞退し、「この後も各々と共に天下のことを謀っていきますから」と、ついに上座につきませんでした。

吉宗、八代将軍となる

正徳6年(1716)5月1日、江戸城にすべての大名が集結。吉宗が将軍後見となることが老中より告げられます。その日の午後四時頃、家継死去。享年8。

翌5月2日、吉宗は江戸城二の丸にて諸大名の挨拶を受け、以後「上様」と呼ばれることが老中より発表されます。

吉宗の最初の仕事は、前将軍家継の葬儀を取り仕切ることでした。葬儀の後、家継の遺体は父家宣と同じく、芝増上寺に埋葬されました。

三七日法要を終えた吉宗は、5月22日、江戸城本丸に入りました。すなわち正式に八代将軍となる準備でした。ただしまだ正式には将軍となっていません。朝廷から征夷大将軍宣下を受けてはじめて将軍と公に認められるのです。

にも関わらず、喪が明けると、もう諸大名が登城して、新将軍吉宗に拝謁しました。

7月1日、改元。正徳6年あらため享保元年(1716)となります。改元の理由は「大喪が続いたため」つまり、六代将軍家宣、七代将軍家継があいついで亡くなったことによってです。

8月4日、それまで赤坂の紀伊屋敷にいた嫡男の長福が江戸城ニの丸に入りました。この時4歳です。ニの丸に入るということは、次の将軍候補となったことです。吉宗が八代将軍となった始めから、次の九代将軍へのバトンタッチのことが考えられていたわけです。

そして8月13日、江戸城本丸にて、征夷大将軍の宣下が行われました。霊験法皇の院使、中御門天皇の勅使が江戸城を訪れ、おごそかに儀式が執り行われました。ここに吉宗は正式に徳川幕府八代将軍に就任したのです。

財政難にあえぐ幕府

吉宗が将軍に就任した頃、幕府の財政はガタガタでした。

なぜそんなことになったのか?

新井白石の正徳時代。年貢率を約3割まで下げました。江戸幕府初期は七割取っていたのを大幅に削減したのです。これにより民は潤い、華やかな世相となりました。

しかし儲かっているのは町人ばかりでした。武士階級は、むしろ困窮しました。米で給料をもらって、それを貨幣に変えて生活している武士にとって、貨幣経済の発達は利益をもたらしませんでした。

大名はじめ武士の暮らしはどんどん苦しくなっていきました。

それでもまだ幕府は安泰でした。

年貢収入だけに頼る諸藩と違って、鉱山からの収入、貿易による収入があったからです。しかしそれらも、元禄の末頃には頭打ちになっていました。

ついに旗本への給与が遅延する、ということにまでなっていました。その頃詠まれた狂歌です。

旗本に 今ぞ寂しさ 増さりける 御金もとらで 暮らすと思へば

はなさじと 思へど例の 質屋まで ふりゆくものは 衣装なりけり

『享保夜話』

御代始め

将軍就任に際し、吉宗は幕臣たちに言いました。

「今度私が将軍となったのは、天下の政治を立て直すためだから、これまでの将軍と違った政策を取る場合がある。権現さま(家康)以来の格式は尊重する。しかしそれ以外の無駄なしきたりは廃止する」と。

すなわち家康公以来の格式は守るが、それ以外の無駄なことはどんどん取りやめにする。コストカットしまくるぞという宣言です。

勅使・院使を見送った後、吉宗は寛永寺・増上寺・紅葉山に参詣しました。無事に将軍宣下を済ませたことを、歴代の将軍に報告しました。

このように吉宗の御世はじめはとどおこりなく行われ、後継者争いなどは起こりませんでした。

解説:左大臣光永