徳川吉宗(一)紀州藩時代

八代将軍徳川吉宗。徳川幕府初の徳川宗家以外の紀伊徳川家から出た将軍。30年にわたる「享保の改革」を行い、徳川中興の祖とも言われます。

誕生

八代将軍徳川吉宗は貞享元年(1684)紀州藩55万石、和歌山城下の屋敷にて、紀伊徳川家二代・光貞の四男、七人兄弟の末っ子として生まれました。母は巨勢氏の娘・お由利の方(ただし母の血筋には諸説あり)。幼名を源六といいました。

徳川綱吉 系図

源六は5歳まで紀州藩の家臣の屋敷で育てられました。そのせいか、後々まで家臣に優しく、格式にとらわれず、家臣の気持ちをよくわかるようになりました。

源六が子供のころのエピソードが伝わっています。

ある時、父光貞は、源六と三人の兄たち…計四人の息子たちを呼んで、刀の鍔が入った箱を示します。「よいか。好きなものを取ってよいぞ」すると三人の兄たちは、私はこれがほしい、私はこれですと、思い思いの鍔を手に取る。

ところが源六だけが何も言わないので光貞は不審に思ってきいてみると、私は残ったのを箱ごといただきますと。うむむ、こやつなかなかしたたかじゃわい。大物になるやもしれぬと父は思い、その通リにしました。

ところが源六は、受け取ったものをすべて家来たちに分け与えたのでした(『徳川実紀』)。

またこんな話もあります。

源六が六歳の時、和歌山城内で敷居を飛び越える遊びをしていて、ケガをしてしまった。父光貞は、守役の男を、けしからんお前がちゃんと見てないからだと謹慎処分にしました。

その後、源六が遊んでいると守役の姿が見えないので、どうしたのだ?は、実は若殿をケガさせたので謹慎処分とされました。なに!ケガをしたのは我が責任ぞ。それを、守役を謹慎にするなんてひどい。断固、父に抗議する。

そして実際に抗議して、その結果、守役は許されました。その事情をきいた守役はああ…若殿!何ともったいないと涙を流しました。

家来思いな、心の優しい子供だったようです。

江戸城初登城

元禄7年(1694)11歳の源六は新之助頼方と改名します。「頼」は、紀伊徳川家初代・徳川家康の十男・頼宣から一字取っています。

※御三家とは、徳川家康の九男・徳川義直を祖とする尾張徳川家と、十男・頼宣を祖とする紀伊徳川家と、十一男・頼房を祖とする水戸徳川家をいいます。

御三家

翌元禄8年(1695)和歌山から江戸赤坂の紀州藩邸(中屋敷)に移り、以後ここで暮らすようになります。

元禄9年(1696)13歳の頼方は、はじめて江戸城に登城し、5代将軍徳川綱吉に御目見えします。

これが江戸城か!スケールの大きさに目を見張ったことでしょう。これより頼方は紀伊徳川家の庶子として認められ、正式に大名の一人として数えられることとなりました。

元禄10年(1697)将軍徳川綱吉が江戸の紀伊徳川家屋敷を訪れ、三男頼職(よりもと)に越前高森(たかもり)三万石が、四男頼方に越前葛野(かずらの)三万石が、与えられました。

長兄綱教(つなのり)は将来紀伊徳川家を継ぐからいいのですが、三男頼職と四男頼方は将来どうなるのか。不安定な立場でした。そこに、はじめて領土が与えられたのです。

二人としても、父光貞としても、嬉しいことでした(ちなみに次男は早世)。ただし頼方は領地には行かず、父光貞にしたがって江戸と和歌山を参勤し、越前の領地は家来にまかせていたようです。

元禄11年(1698)父光貞が隠居し、長兄綱教が紀伊徳川家の家督を継ぎました。翌元禄12年(1699)頼方元服。

紀州藩時代のエピソード

紀州藩時代の頼方=吉宗について、こんな話が伝わっています。

赤坂の紀州藩邸の物見所に登って頼方が見ていると、久留米22万石藩主・有馬玄蕃守則維(のりふさ)の行列が通りかかった。

それを見て頼方はつくづくと、つぶやきました。「かばかりの人ともならまほしき事ぞ(これくらいの人になりたいものだなあ)」。

頼方=吉宗はあくまで部屋住みの身分であり、紀伊徳川家の末席にいるだけでした。しかしいつかは、世の中を動かしてみたいという気持ちも、あったようです。

また、大岡越前守忠相とのエピソードも伝わっています。大岡越前守忠相は後に吉宗に抜擢され江戸の町奉行として活躍する、あの人です。

若い頃の頼方=吉宗はずいぶん無茶苦茶やりました。伊勢の、禁制の海である阿漕(あこぎ)が浦で魚をとっていた。ところへ当時能登守と名乗っていた大岡忠相が通りかかり、お前何をやっている許さんぞ。

何が許さんぞだ、俺は紀州の殿様の息子だぞ。なんでも自由だ。何紀州さまの身内を語るとは不届きな。来い。あっあっ、やめろとひっぱっていって、大岡忠相は頼方にさんざん説教したという話です。頼方はこれに懲りて、素行がよくなったという話です。

後年、吉宗が大岡忠相を大抜擢したことから逆算して作られたお話でしょう。

祭の時は二三人の家来をしたがえて夜店をひやかしてまわった、散歩の途中、夫婦喧嘩の仲裁に入ったなんて話も、和歌山城下でのエピソードとして伝わっています。ざっくばらんな性格だったようです。

吉宗の人物

吉宗のエピソードを続けます。

まず外見。

背が、ずば抜けて高かったとされます。六尺(182センチ)を越えていたと。当時の日本人の平均身長が157センチほどですので、その巨漢ぶりは大いに目立ったことでしょう。

狩りの時、700人ほどの勢子(獲物を追い立てる人員)の中で頭一つ飛び出して見えたと伝えられます(『名君徳行禄』)。

三尺(90センチ)以上の太刀をはき、脇差も2尺5寸(75.9センチ)あったといいます。

性格は豪胆でした。

紀州藩士時代、領内で狩に出かけた時、イノシシが突進してきた。わあーーとひるむ家臣たち。しかし吉宗は、ターーン、ターーン、二発、撃ち込む。

するとイノシシは、ブヒッブヒッ、さらに興奮して突っ込んでくる。蜘蛛の子を散らすように逃げ出す家臣たち。

しかし吉宗は、しごく冷静に銃を構え、ターーン三発目を眉間に打ち込み、どうと敵は倒れました(『徳川実紀』)。

なんだなんだお前たち、それでも武士か。情けない!

それくらいのこと言ったでしょうか。

奥医者の内田玄勝正秀(うちだげんしょう まさひで)はたいへん太っていましたが、ある時宴会の席で酔っ払って、よっとっと、アッ!縁側から踏み外した。その時吉宗は、ばっと帯をつかみ、やすやすと内田玄勝を引き上げました。「なんと剛力な」人々は関心しました。

吉宗は威厳があり、拝謁する者は誰もがかしこまりました。顔は色黒で、あばたがありました。性格はおだやかで、けして声を上げたり怒り狂ったりは、しなかったと伝えられます。

吉宗は5歳まで紀州藩の家臣の屋敷で育てられました。そのせいか、後々まで家臣に優しく、家臣の気持ちをよくわかっていました。

吉宗が紀州藩主時代、ある藩士が宿直をさぼって朝帰りしました。ケシカラン!上役は怒って、その者を処罰しようとしました。吉宗はしかし、その者が武芸に熱心なことをきいていたので、

「世の中に完全な人はいない。短所もあれば長所もある。私は聞いてないから、今回のことはよく注意しておけばそれでよい」

そう言って不問にふしました。

吉宗が将軍に就任した後、諸藩から献上品が届けられました。さて将軍さまは外様大名の献上品は口にしないのが慣習でした。毒がもられている心配があるためです。しかし吉宗はそのような慣習には囚われませんでした。

「余も紀州藩主だったのでよくわかる。献上品というものはさまざまに心を尽くして選ぶものだ。それを無下にしてよいものか。この太平の世に、何の恨みがあって毒を盛ったりするだろう」

そう言って、外様大名からの献上品もこだわりなく、食べたと伝えられます。

江戸城の近くで火事があった時は、自ら羽織・革袴をつけて屋根の上で防火を指揮したと伝えられます。

(テレビドラマ『暴れん坊将軍』は吉宗が町火消“め組”に居候する貧乏旗本の三男坊に姿を変えて市井と交わるという設定ですが、こういうエピソードが元ネタにあるのかもしれません)

学問は、あまり熱心ではなかったようです。

吉宗お付きの学者・室鳩巣(むろ きゅうそう)が儒学などの講義をすると、

「文字などはよくわからんから、肝心のところだけかいつまんで教えてくれ」

そんな具合でした。一方、地学や法律、医学、薬学など実用的な学問には熱心でした。朱子学のような抽象的・観念的な学問が嫌いだったのです。

書もよくし、絵も描きました。特に虎の絵がうまかったそうです(『南紀徳川史』)。

生活は質素でした。

食事は朝夕の二回。元禄時代からは一日三食が一般化していましたが、吉宗は

「一日二食でじゅうぶんである。それ以上は腹の奢りだ」

そう言って一日二食を守りました。

酒は好きだが量を決めて、度を超すことはありませんでした。

運動も心がけました。紀州藩士時代、食後に近習の者を従えて約一里(4キロ)ある藩邸の周りを一周するのを常としていました。

鷹狩と乗馬を好みました。

馬は、亘(わたる)と名付けた一日に千里を駆ける栗毛の馬を好みました。狩りの時はこの亘の頭の上に鉄砲を置いて撃ちました。

亘は少しも嫌がりませんでした。吉宗が乗る時は亘は首をさげて歓迎しますが、他の者が乗ろうとすると暴れ狂って乗せまいとしました。

解説:左大臣光永