五代綱吉(四)貨幣の改悪と儒教への傾倒
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貨幣の改悪
生類憐れみの令と並び、綱吉の政策として悪名高いのが、元禄八年(1695)から始まる貨幣の改悪です。この頃、諸国の金銀産出量が減っていました。諸国の金銀生産量が減るということは、幕府の収入が減るということです。将軍綱吉の豪華な暮らしを続けるには、莫大な金がいりました。そこでまず銀座の年寄りから勘定奉行荻原重秀に申し出があります。
銀貨の銀の比率を減らせばいいんです。そうすれば数が増えるじゃないですかと。荻原重秀はこの貨幣改悪案を容れて、銀の含有率の少ない「元禄小判」を出しました。しかも、これまでの慶長小判と一対一の比率で交換させるのですから…結果、幕府には多額の収入になります。
貨幣の質を落としながら等価交換させる。国家ぐるみの詐欺行為です。現在の年金制度と同じですね。そもそも理屈が通ってない。結果、物価は上昇しインフレとなります。人々の恨みと苦しみの声は天下に満ちました。
七代将軍家継の時代に、新井白石が荻原重秀を罷免し、貨幣の質を戻すまで、その混乱は続くこととなりました。
湯島聖堂の創設
さて悪名高い生類憐みの令ですが、別に人民をいじめるために作ったのではありません。もともとは、君子の仁愛は鳥獣にまで及ぶという儒教の崇高な理想に基づくものでした。
儒教。
そうです。
綱吉は学問に熱心で、特に儒教を信奉していました。
元禄三年(1690年)徳川綱吉は、林羅山の私塾と孔子廟跡を神田に移築。この地に学問所を築きました。
湯島聖堂です。
もともと儒学者・林羅山が寛永九年(1632年)三代将軍徳川家光より上野忍ヶ丘(しのぶがおか)に与えられた土地に私塾と、孔子廟(先聖殿)を開いていました。
これら上野の私塾と孔子廟は明暦の大火(1657年)で焼失しましたが、綱吉はそれを神田に移築して学問所としたのです。
湯島聖堂 入徳門
湯島聖堂 大成殿
またこれに先立ち、この地を孔子の出身地にちなんで昌平坂と改名し、近くの橋を昌平橋としました。
綱吉は大学頭林信篤(はやしのぶあつ)を重用し、湯島聖堂で経書の講義をさせ、ついに四書五経を習得しました。
自分が学ぶと、次は人に教えたくなるのは世の常です。しかし綱吉の場合ははなはだ迷惑なやり方でした。
「論語を教えてやる!そのほう、論語くらい知らんといかんぞ。予が直接講義してやる。座れ。そして聴け。予の、論語の、講義を!」
綱吉は側用人柳沢吉保(やなぎさわよしやす)や牧野成貞(まきのなりさだ)の家に押しかけ、『論語』の講義をしました。
将軍さまをお迎えするわけですからね。迎えるほうも相当の接待をしないといけない。そのたびに金が飛びます。しかも綱吉の訪問は一度ではなく何十回にもおよびました。
たまったもんじゃないです。やれやれ…上さまの儒教熱心にも困ったものだ。そんなつぶやきも出たでしょうか。
ちょっとその後の湯島聖堂について語りますと…
寛政2年(1790年)11代将軍家斉の時代。
老中松平定信は朱子学を幕府の正式の学問とし、湯島聖堂で他の学問を講義することを禁じました。寛政異学の禁です。
寛政9年(1797年)には林家の私塾を幕府直轄の学問所とし、孔子の出身地昌平郷(山東省済寧市曲阜)にちなみ、昌平坂学問所(昌平黌)と名付けました。
以後、幕末まで、昌平坂学問所では、朱子学が正式の学問として学ばれました。
もとの聖堂は四回の江戸の火事にあい、そのたびに再建されるも、大正12年(1923)関東大震災により大方の建物が倒壊してしまいました。
現在の湯島聖堂で綱吉時代そのままなのは、入徳門と水屋だけです。
儒教好きのさまざまなあらわれ
綱吉の儒教への傾倒は、さまざまな形で現れました。
天和2年(1682)諸国に立てさせた高札には、こうありました。
「忠孝をはげまし、夫婦兄弟諸親類にむつまじく、召仕之者に至る迄、憐憫を加ふるべし、若し不忠不孝之者あらば重罪たるべきこと」
日常生活の規定
ただ本人がどれだけ熱心に儒教を信奉しようと、それが私人であれば勝手にやればいいんですが、綱吉は天下の将軍でした。しかも綱吉の厳格すぎる偏執的性格は、自分の厳格さを天下万民にも求めました。
倹約令や、禁酒令となって、それはあらわれます。日常生活が、微に入り細に入り幕府によって規定されました。服の色、生地、人形に着せる衣の布質、庭に置く石の大きさ、正月の門松の形や大きさまで幕府は細かい決まりを作りました。
「中学校の校則かよ」ってくらいです。儒教の弊害、ここに極まるといったところです。
安宅丸の廃棄
また、家光から相続した軍艦「安宅丸」を廃棄したのも、綱吉の儒教思想のあらわれでした。安宅丸には維持費として毎年10万石かかったのです。
そこで堀田正俊が綱吉に進言します。
安宅丸は無駄です。倹約こそ第一です。無用な武具をなくせば戦も減るわけです。過てばすなわち改むるに憚ることなかれ、と。
そこで綱吉は、なるほどもっともであると、堀田正俊の進言を受け入れ、安宅丸は廃棄となりました。
その後、堀田正俊は夜な夜な悪夢に悩まされました。
「伊豆へゆこう、伊豆へゆこう」
はっと見ると、船の亡霊がワッと迫ってくる。
わあっ、来るな、来るなあーーーっとはね起きて、枕元の刀をぶんぶん振るった、そんな話も伝えられています(『元正間記』)。
朝廷への崇拝
綱吉の儒教への傾倒は、朝廷権威の崇拝という形でもあらわれました。
貞享4年(1687)霊元天皇の譲位をうけて、皇子が東山天皇として即位します。この時綱吉は、200年ぶりに大嘗会(だいじょうえ)を復活させました。
大嘗会は即位後のもっとも重要な儀式でしたが、室町時代、朝廷権威が失墜してより中止されていました。それを、綱吉は復活したのです。
また綱吉は、歴代の天皇陵を調査させ、修理しました。
京都の賀茂神社は朝廷の信仰厚い神社ですが、室町時代に衰退していました。毎年五月に行われる賀茂の競馬(くらべうま)・賀茂祭も中断していました。
綱吉は賀茂神社に土地を寄進した上で、賀茂の競馬(くらべうま)・賀茂祭を復活させます。賀茂祭は現在の葵祭のことです。毎年京都で葵祭が見られるのは徳川綱吉のおかげといえます。
このように、綱吉は朝廷権威を重く見て、予算と手間を割いて、その復興につとめました。こうしたことも、綱吉の儒教への傾倒から出ていると言えるでしょう。
服忌令(ぶっきれい)
儒教を重んじる綱吉は、何事も折り目正しく、ガチガチなのが好きでした。たとえば服忌令の制定に、それがあらわれています。
服忌令。
忌中と服喪期間を細かく定めたものです。実父母が死んだ時は50日が忌中、13ヵ月が喪中、養父母が死んだら30日が忌中、150日が喪中など、事細かに決めました。
天和4年2月にはじめて定められて以来、元禄4年まで追加・修正を加えていきました。
はじめは服喪期間を定めるだけでしたが、やがて、「穢れ」についての事細かな項目が加えられていきます。
出産したら穢れを払うために何日間精進潔斎する、牛や馬が死んだら何日間精進潔斎する、針仕事で指をケガしたら何日間精進潔斎…。
これらの穢れに触れた者も穢れるとされ、穢れを落とすにはまた精進潔斎が必要としました。
現代の感覚で言えば、どうでもいいことばっかりです。聖書の「レビ記」のようにこまごました話で、きいているだけで気が滅入ります。
綱吉の異常なまでの潔癖主義と「穢れ」に対する嫌悪は、また違う形であらわれます。獣の皮を扱う猟師などを低い身分と見て、差別するようになっていきました。「えた」という言葉もこのころから一般化していきます。
文化面の功績
さて綱吉は儒教に熱心でしたが、儒教だけではありません。仏教も神道も熱心に学びました。また和歌や絵画など、文化面でも豊かな感性を持っていました。
人はただ まことに二字を 忘れずは
幾千代までも 栄ゆなりけり
いとど猶 ふかき信の 心あらば
代々のさかへを 神も守らむ
綱吉の和歌です。現場を知らない空想的理想論者の顔が見て取れます。綱吉は「まこと」を重んじました。こうしたところから生類憐みの令も出てきたわけですね。
また綱吉は能を好み、江戸城内で自ら諸大名に披露しました。湯島の聖堂でも、護国寺でも、自ら舞いました。親孝行な綱吉は母桂昌院にも能をみせて接待しました。
西洋の文化にも興味を持ちました。
江戸城ではオランダ商館長一行を毎年招いて拝謁しますが、綱吉はその時オランダ人医師ケンペルに西洋の歌を歌わせ、興味深く聞き入りました。
近江の医者の出身である北村季吟を歌学方として取り立てました。北村季吟は『伊勢物語』『源氏物語』『枕草子』などの注釈書をあらわします。松尾芭蕉の師としても有名です。
神道では吉川惟足(よしかわ これたり)を取り立てます。松尾芭蕉の弟子・河合曽良が惟足の下で神道を学んだことは有名です。曽良の学んだ神道の知識は、『おくのほそ道』の旅において、各地の神社のゆらいなどを知る上で、大いに役立ちました。
暦も新しくしました。これまでの暦は誤差があるという安井算哲の意見を入れて、貞享暦という新しい暦を採用しました。
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