三代家光(九)寛永の大造替
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東照大権現 徳川家康への心酔。
家光の東照大権現 徳川家康への心酔について。
家光は東照大権現 徳川家康に深く心酔し、心から尊敬…それどころか神と崇め奉っていました。病になった時夢の中に東照大権現家康が出てきて、助かったとか、子供の頃跡取りになれないはずだったのが、祖父家康の口ききで跡取りとなれたことなどあり、家光は何かと祖父家康とつながりが深く、深い因縁を感じていたようです。
寛永の大造替
寛永11年(1634)、上洛を終えて江戸に戻った家光は、来る寛永13年(1636)の東照大権現家康の21周忌にあわせて、日光東照宮の大規模な造替に取りかかります。
いわゆる「寛永の大造替」です。
21周忌にあわせたのは伊勢神宮の20年の式年遷宮に習ったものでした。
歴代の徳川将軍の中でも家光の家康への心酔ぶりはずば抜けています。ふところに「二世権現、二代将軍」などと書いたものをお守り袋にしのばせていたと言われます。自分は家康公の二世であると。実際の二世は秀忠なのですが、家光には父秀忠のことは眼中になかったようです。
幼い頃、家光は父秀忠・母お江与に愛されませんでした。両親ははじめ、家光の弟の忠長を将軍につけようとしました。それを春日局が家康に頼み込んで、家光が将軍になれたのです。
そういった幼い頃の経緯があるため、家光は父秀忠に反発をおぼえ、祖父家康に深い感謝を感じていたようです。家光は誰かと話していて家康の話題が出て来ると、袴を履いてしゃんと座り直して話をききました。また、夢に家康が出て来ると、それを狩野探幽に描かせました。実際にその画が残っています。
歴代の徳川将軍はぜんぶで16回、日光に参詣していますが、そのうち9回は家光によるものです。
とにかく祖父家康を尊敬し、崇拝していたんです家光は!
日光東照宮の大造替も、家光の家康への深い心酔のあらわれでした。
家光による日光東照宮の造替にかかった総費用は、金56万8000両、銀100貫、米1000石。工事にあたった職人・人夫の総数454万1230人。
幕府はこれだけの大工事をほぼ自前でまかないました。諸大名に石灯籠一つ奉納させませんでした。駆り出された人夫にも、ちゃんと給金が支払われました。
これはその後の幕府の財政難の一因となりましたが、誰にも迷惑をかけない。徳川の力だけでやるというのが、家光のけじめだったのでしょう。
寛永13年(1636)4月、家光は家臣を率いて日光に赴き、生まれ変わった日光東照宮に参詣しました。
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