新井白石(五)宣教師シドッチ

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宣教師シドッチとの出会い

ジョヴァンニ・バティスタ・シドッチ。イタリアシシリー島のパレルモ生まれ。1703年、元禄16年にローマ教皇クレメンス11世より日本行きの命を受け、宝永5年(1709)8月、屋久島に到着。

その時シドッチは和服に刀を帯びていました。これでワタシ日本人と区別ツキマセン。しかし、西洋人の顔ですから、すぐにわかります。

あやしいヤツがいるぞと、現地人に発見され、いったん長崎に送られ、翌宝永6年(1710)、江戸に送られます。シドッチを直接取り調べたのが、新井白石でした。

取り調べは宝永6年(1710)11月23日から12月4まで四回にわたって行われました。シドッチはすでに日本語を学んでいたので、二度目からは通訳なしでいけました。

シドッチは幕府への献上品として当時最新の世界地図を持参しており、それを前に世界情勢を語りました。

「ヨーロッパの地理はどんなものか」
「何のために日本に来た」
「キリスト教の教えとは要するにどういうものだ」

などと白石は質問していきました。すぐに白石はシドッチの人物に驚かされます。何をきいても、即座に答える博学さ。それでいて礼儀正しく、慎み深く、温かい人情も感じられました。法皇の命を受けて、はるかの波路を越えて六年もの月日をかけて日本へ来たという話に、白石はすっかり聞き入り、心打たれました。

(宣教師は日本を侵略するために来ているというが…それは違うのではないか?)

四回の取り調べを通して、白石は次第にシドッチの人柄に惚れ込んでいきます。

「して、あの西洋人のこと、どうするべきか」

家宣に問われて、白石は答えます。

「上中下、三つの策がございます。上策は送り返すこと。中策は囚人として拘束すること。下策は死刑」

「うむ…」

結局、家宣は中策を取り、シドッチは小石川のキリシタン屋敷に幽閉されることとなります。白石はたびたびシドッチを訪れ、キリスト教やヨーロッパについて質問しました。

キリスト教と一言で言っても、カトリック、プロテスタント、異端があることも知りました。ヨーロッパで当時戦われていた、スペイン継承戦争や北方戦争のことも知りました。

話がオランダ人のことに及ぶと、シドッチは嫌悪感をあらわにしました。

「オランダ人は泥棒です。彼らは侵略者です。残虐です」

シドッチはカトリックであり、オランダはプロテスタントですので、そこにはどうしても越えられない壁がありました。

しかし白石は考えます。秀吉以来、代々の政権は宣教師を侵略のために渡航してくるのだと決めつけてきた。それは違うのではないかと。シドッチには侵略の意図など、微塵も見られない…

話せば話すほど、白石はシドッチの博識と嫌味の無い人柄に惹かれていきました。またシドッチも白石のことを「大きな事業をなさないではすまない方だ」「五百年に一度ほど出る人物だ」などといって、白石にすっかり心酔します。

ただし白石はシドッチに心惹かれながらも、一方ではシドッチの話に批判的な、学者としての見方も忘れませんでした。オランダのカピタンの意見もきいて、シドッチの意見には一部誤解があるとして修正しています。

ふつう、自分の置かれた立場によって贔屓が生まれるものですが、白石はそういった贔屓を厳しく退けました。

シドッチはキリシタンの立場から儒教を見下す発言をしました。しかし白石は儒者でありながら怒るでもなく、シドッチの儒教批判の言葉を、そのまま記録に残しました。

このあたりの公正さ、自分一個の立場を離れて冷静に真理をさぐろうとする態度に、白石という人物の本質が見える気がします。

とにかく18世紀初頭という時期にあって、西洋の宣教師とはるかに海を隔てた東洋の儒学者がこのような形で出会ったことは、まことに興味深い、稀有なことと言えます。

しかし、白石とシドッチの関係は思わぬ形で終わりを迎えます。

シドッチが牢屋の番人をしている夫婦にカトリックの洗礼を授けたことが発覚したのです。シドッチは地下牢に移され、正徳4年(1714)10月21、獄中で死にました。

「シドッチ…ああ…」

白石がシドッチの死についてつくづく感慨をもらした書状が残っています。後に白石は、シドッチから見聞きしたことを『西洋紀聞』という書物にあらわしました。

解説:左大臣光永

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