新井白石(ニ)甲府宰相・徳川綱豊に仕える

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甲府家へ出仕

加賀前田家への就職はかないませんでしたが、翌元禄6年(1693)甲府家への出仕が決まります。甲府宰相といわれた徳川綱豊は、将軍徳川綱吉の兄綱重の息子にあたります。他の大名とは一線を画した徳川親藩であり、将軍に世継ぎが無い時は甲府家から将軍が出る可能性がありました。そして事実、この綱豊が後に六代将軍家宣となるのですが…白石がそこまで見越していたわけでは無いでしょう。

任官の誘い

甲府家への任官の様子は『折たく柴の記』などに詳しく書かれています。

元禄6年(1693)10月。

甲府家家老・戸田忠利(とだ ただとし)の命を受けて高力忠弘(こうりき ただひろ)が木下順庵の館を訪れます。

「門人のどなたかを甲府家で召し抱えたい」

「甲府殿へ…でございますか?
しかし甲府殿には代々林家から儒者を召し抱えらておられるのでは」

「林家では断ってきたのだ。どうにか考えてもらえまいか。
ただし禄は多くは出せぬ。
他の儒者との兼ね合いがあるので…、30人扶持でどうか」

「それでは…あまりでございます。
せめて40人扶持なら」

「誰かいるのか」

「はっ…いるにはおりますが」

木下順庵の頭に真っ先に浮かんだのは新井白石のことでした。先年、加賀前田家への任官がふいになってしまったことでもあり、またもう36歳になっている。白石を推挙してやりたい。あの男の学識を、思い切り世の中で活かさせてやりたい。

しかし…禄が少なすぎるのが引っかかりました。そこで木下順庵は新井白石に相談します。

「白石、どうしたものだろう」
「先生、よいお話だと思います」

白石は乗り気でした。たしかに禄は少ない。しかし甲府宰相徳川綱豊さまといえば、将軍綱吉の甥であり、甲府家はほかの大名とは違う、徳川親藩です。大きな仕事ができそうでした。天下国家にこだわる白石としてはさしあたっての収入の少なさは問題にはなりませんでした。

それに今回就職を蹴ったら、二度と話が来なくなるかもしれない。白石は言いました。

「ご推薦をお願いいたします」

こうして白石の甲府家への出仕が決まりました。白石の就職が決まったときいて、前年の加賀前田藩就職の件で恩義のある岡嶋仲通はじめ、同門の仲間たちがお祝の詩を送ってきました。

徳川綱豊

さて白石が仕えることになった甲府宰相・徳川綱豊、後の六代将軍家宣は、どんな人物か?

徳川綱豊=家宣 略系図
徳川綱豊=家宣  略系図

父は甲府藩主徳川綱重、母はお保良の方。幼名虎松。綱重が関白二条光平との娘と婚約中に側室の保良の方との間に生まれたため、世間をはばかって家老の新見正信のもとで養育されました。

その後、綱重は結婚したものの子に恵まれず、寛文10年(1670)、正式な子として認知され、延宝4年(1676)元服して綱豊を名乗ります。

綱重が没すると延宝8年(1678)甲府藩25万石の藩主となっていました。後に35万石に加増されます。

湯島へ

元禄7年(1694)2月、白石は甲府宰相徳川綱豊に仕えるに当って、湯島天神崖下の屋敷に引っ越しました。出仕先の甲府藩邸は桜田にあり徒歩50分くらいです。白石は庭に梅を植えました。もちろん湯島天神の主神たる菅原道真公を意識したものでした。

湯島天神
湯島天神

また、梅はあらゆる春の花に先駆けて花開く。しかも寒い冬を過ごした後こそ、美しく咲くことから、白石は下積みの長かった自分の人生を梅に重ね合わせたようです。この頃の白石の詩です。

小齋に諸君集りて同じく庭上未だ開かざるの梅を賦す
新井白石

庭上の寒梅樹
枝頭 春帰らんと欲す
風に臨んで玉笛を調べ
月を待ちて金徽(琴)を撫す
素艶(そえん) 猶(なお)面(おもて)を遮り
幽香 未だ衣を出でず
幸いに芳心の結ぶを得
還(ま)た雪に学んで飛ぶに勝(た)えたり

友人たちとまだ花開かない梅の枝の下で宴を開き、ワイワイやってる場面です。これから素晴らしいことが始まる。長い苦労をしてきたが、いよいよ道が開けてきた。そんな期待感にあふれていますね。

白石の講義

新井白石は甲府家に儒者として雇われました。主な仕事は、講義です。『大学』や『論語』といった四書五経に始まり、『万葉集』や勅撰和歌集など、文学の方面も講義しました。藩主綱豊以下、家臣たちはこぞって白石の講義に聞き入りました。

特に『大学』は短いながら政治家としての基本が書かれているので、藩主綱豊にとっても、甲府家の家臣たちにとっても得るところが多かったことでしょう。また『高麗陣物語』『応仁の乱の事』『関ヶ原軍談』などの歴史書も講義しました。

綱豊は後に六代将軍家宣となるわけですが…白石がそこまで見越していたわけではないでしょう。しかし、とにかく白石は綱豊にきわめて高度な帝王学を授ける形となりました。

『藩翰譜(はんかんぷ)』の編纂

また白石は徳川幕府の歴史書『藩翰譜(はんかんぷ)』を10年かけて編纂しました。関ヶ原の慶長5年(1600)に始まり、四代家綱の代の終わりまで、徳川家と、代表的な大名家の事績を記したものです。

家康の名君ぶりはもちろん、家康の名執事・本多正信・正純父子、島原の乱や明暦の大火後の復興事業で活躍した松平信綱、諸侯としては天野康景・酒井忠利・池田光政らの事績が記されました。

名君についても暗君についても、まんべんなく採り上げられ、後の六代将軍家宣を形作る上で大きな役割を果たしたと思われます。

白石は繰り返し綱豊に『藩翰譜』を講義し、綱豊も『藩翰譜』を座右の書として繰り返し読みました。綱吉が死んで綱豊が六代将軍家宣となるとすぐに悪名高い生類憐れみの令が廃止され、生類憐れみの令で処罰されていた人々が釈放されました。こうした善を行うに機敏なところも、白石の教育のたまものと言えるでしょう。

白石の下痢

とにかく白石の講義は真剣でした。そして綱豊も、白石を師として心から尊敬し、真剣に講義を受けました。冬は上下、夏は肩衣(かたぎぬ)に一重の袴を履いて、いつも座っている御座からおりて、御座から九尺ほど離れて白石の講義を受けました。

夏熱くても扇であおがず、夜蚊が多くても逐わずというありさまでした。

二人の間にはよき師と弟子の関係ができました。しかし…

「う…アイタタタ…」

「白石、また下痢か」

白石はよほど気合を入れすぎたせいでしょうか…この頃から下痢の症状が多くなっていきます。

綱吉から家宣へ

宝永元年(1704)12月5日、甲府綱豊は正式な将軍跡取りとして桜田邸から江戸城西の丸に移ります。時に綱豊43歳。甲府綱豊は将軍綱吉の兄・綱重の嫡男であり、26年間にわたって甲府藩主の地位にありました。

徳川綱豊=家宣 略系図
徳川綱豊=家宣  略系図

綱吉としては、綱豊を後継者とするのは不本意なことでした。なにしろ自分の子に継がせたいのです。しかし嫡男国松は幼くして亡くなり、その後も子は生まれませんでした。一人娘の鶴は9歳で紀伊徳川家に輿入れしました。この鶴が男子を生んでくれればどうにかなった所ですが、鶴は28歳で亡くなりました。

とにかく子が得たい。その思いがほとばしって「生類憐れみの令」という悪法も生まれたのですが…どうしにもならず、もう綱豊を迎えるしかありませんでした。

「本来は納得いかないが…子が生まれないのだから、仕方がない」

こうして綱吉は、甥にあたる綱豊を養子にした上で江戸城西の丸に迎えました。

綱豊は西の丸入りと同時に名を家宣とあらためます。しかし家宣が六代将軍となるにはなお五年の歳月が必要でした。その間、家宣は新井白石のもと、帝王学をしっかりと身につけていきます。家宣にとって雌伏の時代といえるでしょう。

新井白石の登用

すぐに新井白石以下7人儒者が、江戸城西の丸に迎えられます。白石の江戸城における旧甲府藩家老は、白石に言いました。

「これからのやりようこそ天下の安危にかかわることであるが、我々は何もわからない。
ただ白石殿、そこもとがおられることだけが、頼みである」

白石はすぐに亡き師・木下順庵に事の次第を報告し、翌宝永元年(1705)より江戸城西の丸において、次期将軍・家宣への講義をはじめました。

講義の内容は、

『論語』『孟子』『大学』『中庸』の四書。
『易経』『書経』『詩経』『礼記』『春秋』の五経のうち『書経』『詩経』『春秋』。(『易経』『礼記』は別の儒者が担当)。
『周礼(しゅうらい)』『儀来(ぎらい)』『孝経(こうきょう)』

歴史書では『資治通鑑(しじつがん)』とその要約版である『通鑑綱目(つがんこうもく)』

わが国の歴史書として『朝鮮征伐記事』『関ヶ原記事』『大阪記事』などでした。うーん…昔の政治家はよく勉強したんですね。

綱吉の最期と家宣の将軍就任

宝永5年(1708)の暮れから綱吉は風邪を患います。翌宝永6年(1709)正月、発疹が出て、麻疹と診断されます。当時、麻疹は命に係わる病気でした。さまざまに看病しましたが、正月10日、綱吉は帰らぬ人となります。上野寛永寺に埋葬され、正月23日、正一位の位が送られました。

5月1日、家宣が征夷大将軍の宣下を受け、江戸城本丸に入り、六代将軍に就任しました。時に家宣48歳。

人事の刷新

家宣が将軍になってまずやったことは、人事の刷新でした。

綱吉時代に幅をきかせていた老中や側用人を幕閣から追放します。ことに柳沢吉保は綱吉の下、権勢をほしいままにしました。おべんちゃらを言って、生類憐れみの令という天下一のバカ法を、たしなめることもしませんでした。

将軍側近としてあるまじきことであると、家宣から追放される前に、柳沢はみずから辞表を出して隠居しました。もうどうにもならんと観念して、みずから隠居したほうがまだマシと考えたのでしょう。

儒者としては林大学守信篤。この人物も将軍側近でありながら天下一のバカ法・生類憐れみの令について諌めもせず、将軍の暴走を止めませんでした。けしからんことであると、家宣は林大学守信篤を追放しました。

一方、家宣は甲府藩主時代からの側用人・間部詮房を、儒者として新井白石を取り立てました。

生類憐れみの令の廃止

綱吉が没すると、綱吉のつくった制度はほとんど廃止されます。ことに生類憐みの令は評判が悪く、順次、廃止されました。

ただし生類憐れみの令のうち、捨て子の禁止など、いいと思われる部分はちゃんと残されました。

生類憐れみの令にさんざん苦しめられてきた庶民は、新将軍家宣におおいに期待しました。今度の将軍さまはずいぶんマシなんだって?なんでも儒教という難しい学問をして、民衆にやさしくなさるって話だと。

鶴はとび亀は子を産む世の中に
甲府万年 民は悦(よころ)ぶ

万代(ばんだい)の亀の甲府が代となりて
宝永事(ほうえいこと)よ 民の悦(よろこ)び

「宝永事」…宝永時代のことと、「ほう、ええこと」を掛けます。

解説:左大臣光永

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