松尾芭蕉の生涯(ニ)深川時代
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深川 芭蕉庵
延宝8年(1680年)年、宗房は突如深川へ引っ越します。神田上水の改修工事の仕事もやめました。なぜ深川へ引越したかはわかりません。客にこびへつらう商売になっていた俳諧に嫌気がさしたなど諸説あります。
門人の杉山杉風が深川に鯉を飼ういけすを持っていましたが、その池はもう使わなくなって、池の番人が寝泊りする番小屋が開いていました。杉風はこの番小屋を師に提供します。
「どうぞ、先生、使ってください」
「杉風よ、すまんな。何から何まで…」
隅田川のやや東にかつて六間堀という細い運河が流れていました。竪川(たてかわ)と小名木川(おなぎがわ)とを南北につなぐ運河です。その運河沿いにこの番小屋はありました。両国橋と清洲橋の間、新大橋のあたりです。現在この場所には深川芭蕉記念館が建っています。
六間堀と深川芭蕉庵
小名木川
はじめ杜甫の詩にあやかって、泊船堂と庵の名をつけました。
晴れた日には北に筑波山が、西に富士山がよく見えました。南は隅田川から江戸湾が広々と開け、すぐの西には上野の森がこんもりと茂って見えます(今ならスカイツリーも見えますね)。
ある時、門人の一人李下が芭蕉の苗をくれました。庭に植えたところ、23年のうちに見事に成長します。夏には大きな葉がゆらゆら揺れて、遠くから訪ねていくときも、いい目印となりました。以後、この庵のことを芭蕉庵とよび、本人も松尾芭蕉の号を名乗ります。
冬の寒い夜、うすい布団にくるまって寝ていると、ギイィ、ギイィと舟をこぐ櫓の音がきこえてきます。ああ…寒いなあ。はらわたが凍るようだ。あのギィギィいう音が、なおさら寒さを引き立てる。泣けてくる。
櫓の声波を打つて 腸凍る 夜や涙
みすぼらしい庵ですが、しょっちゅう門人たちが訪ねてきて、ワイワイやっていました。また芭蕉は近所の子供たちに勉強を教えてあげたりました。六畳一間の狭い場所ですが、そんなふうに常に人の出入りがあり、にぎやかでした。
「先生、ちゃんと食べてるんですか」
「いやあ、大丈夫だよ」
「痩せましたよ。たまにはおいしいものを召し上がってください」
「いやいや、そんな」
芭蕉はけして金を受け取らないので、門人たちは味噌や醤油も差し入れました。また庵の柱には瓢箪が吊り下げてあり、門人たちが気をつかって、お米をいれておいてくれました。ありがたや、ありがたや…手をあわせながら、芭蕉は米をといで食べたのでしょう。このひょうたんは友人の山口素堂により四山という名前がつけられました。
もの一つ 瓢(ふくべ)はかろき わが世かな
庵の中に、盗まれて困るようなものはひとつも無い。あえて言えばこの瓢箪がひとつあるだけだ。身軽なもんだ。
静かな庵の生活。ところが、とんでも無い事件が起こります。
天和二年の火事
火事と喧嘩は江戸の華といいますが…
天和2年(1683年)12月28日正午、駒込から発生した火は強風にあおられて広がっていき、本郷をなめ尽くし、下谷、浅草へ広がり、隅田川を越えて本所・深川にも及びます。死者は3500名にのぼりました。
芭蕉は塗れた手ぬぐいをかぶって海へ飛び込み助かりましたが、深川は焼け野原になってしまいました。当然、芭蕉庵も燃えてしまいます。
「ああ…宿無しだ。どうしよう」
しかし、人の縁はありがたいもので、友人の山口素堂が皆から金を集めてもとの庵のあとにまた庵を建ててくれました。後年第二芭蕉庵と呼ばれるものです。
蕉風の胎動
雨がふると天井から水が漏れました。そんな時はたらいで水を受け止めます。ぽちゅん、ぽちゅん、夜通し、たらいに当たる水の音が響き、外では嵐の中、バサー、バサーと軒端の芭蕉がゆれていました。芭蕉は嵐の中、夜通し句を練っていました。
芭蕉野分して 盥に雨を 聞く夜かな
後年、「蕉風」とよばれることになる渋い水墨画のような作風は、じょじょに形成されつつありました。貞門派のみやびな作風でもなく、談林派のおどけた感じでもなく、独自の世界を確立する。今まで誰もやらなかったことをやる。芭蕉の中でもやもやしていたものが、しだいに固まりつつありました。
枯枝に 烏のとまりたるや 秋の暮
枯れ枝に烏からとまっている、秋の暮れだ。訳の必要も無いくらい、わかりやすい句です。何のてらいもありません。それでいて、水墨画のような渋い味わいがあります。
飛び立つ烏を庵の縁側から眺めながら、
芭蕉は思います。
(旅に出たい…。西行も、宗祇も、
旅の中で歌を詠み句をつくったのだ…)
しだいに旅に心ひかれていく芭蕉。
そんな中、故郷の伊賀上野から頼りが届きます。
「なに!母上が…」
故郷の母が亡くなったのでした。ずいぶん顔をあわせていませんでした。
母親の死に目にあえなかったことは、さすがにショックでした。
翌年の貞享元年(1684年)8月、
41歳の芭蕉は門人の千里と深川の庵を出発します。
東海道を下り、故郷の伊賀上野を中心に伊賀・伊勢・
大和地方をめぐりました。
野ざらしを 心に風の しむ身かな
(意味)旅の途中で道端に髑髏をさらすことになるかもしれない。それくらいの覚悟で旅立つのだ。風がつめたく、身にしみるよ。
「野ざらし紀行」の旅の後も、芭蕉は深川に拠点を置きつつ、旅に出てはそれを文章にします。「野ざらし紀行」「鹿島詣」「笈の小文」「更級紀行」といった作品が書かれました。
次の章「松尾芭蕉の生涯(三)『おくのほそ道』の旅」