蘇我倉山田石川麻呂の謀殺

こんにちは。左大臣光永です。晩春の風情ただよう昨今、いかがお過ごしでしょうか?

私は昨日、奈良に行ってきました。東大寺の鹿も、春日大社の鹿も、とても慣れていて、しかも行儀がよかったです。

さて本日は「蘇我倉山田石川麻呂の謀殺」という話です。

645年、中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我氏の本宗家が滅ぼした「乙巳の変」の後、孝徳天皇によって飛鳥から難波に宮が移されました。そして「大化の改新」と呼ばれる政治改革事業が行われていきます。

「大化の改新」についてかつてはこう考えられていました。孝徳天皇は単なるお飾りで、実際に大化の改新を進めたのは中大兄皇子と中臣鎌足だと。

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しかし現在は「大化の改新」の条文そのものが後世の捏造とわかっていますし、孝徳天皇はお飾りなどではなかった。難波宮でみずから主導して政治を行っていた、中大兄と中臣鎌足はまだ若く、それほど政治的な力はなかったという話になってきています。

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さてここに、蘇我倉山田石川麻呂、という男がいます。

乙巳の変で蘇我入鹿を殺害する時、中大兄皇子の手下として一役買った男です。孝徳天皇のもと右大臣に任じられていました。

しかし、蘇我倉山田石川麻呂はしだいに孝徳天皇と意見が対立するようになり、溝を深めていったようです…

難波長柄豊碕宮跡
難波長柄豊碕宮跡

左大臣阿部内麻呂の死

事の始まりは大化5年(649)3月17日。

左大臣阿部内麻呂が没します。それまで孝徳天皇の難波の政権はけして一枚岩ではなく水面下にいろいろと対立をはらんでいました。左右の大臣の一方が死んだことによって、一気に緊張が高まります。

蘇我日向の讒言

649年(大化5年)、
蘇我日向(そがのひむか)が中大兄皇子に讒言します。

「私の異母兄の蘇我倉山田石川麻呂は、
皇太子殿下が海岸で遊んでいらっしゃるところを斬りかかって、
殺害しようとしておりますぞ。遠からず謀反を起こすでしょう」

(当時、孝徳天皇の皇居は難波にあり、中大兄の宮も難波にありました。「海岸で」は海の近い難波をさしていると思われます)

蘇我倉山田石川麻呂 山田寺へ

中大兄は孝徳天皇に蘇我倉山田石川麻呂謀反の件を
奏上します。

孝徳天皇は事の真偽を確かめるために、大伴連狛(おおとものむらじ こま)・三国公麻呂(みくにのきみ まろ)・穂積噛臣(ほづみのくいのおみ)の三名を、蘇我倉山田石川麻呂のもとに送ります。

「蘇我倉山田石川麻呂殿、
貴殿に謀反の疑いがかかっておる。
申し開きたきことがあれば述べられよ」

「御返答は、帝の御前で、じかに
申し上げましょう」

しかし、石川麻呂はあらわれません。
再度遣いをやりますが、

「御返答は、帝の御前で、じかに
申し上げましょう」

同じ答えを繰り返すばかりでした。

そこで孝徳天皇は軍勢を遣わし、
石川麻呂の舘を包囲させます。

石川麻呂は二人の息子たちと共に
難波から飛鳥に逃れます。

飛鳥では石川麻呂の長男・興志(こごし)が山田寺の造営を進めていたところでした。

興志は今来の大槻(おおつき)で父一行を迎えると、

「追手を蹴散らしましょう」と息巻きますが、
石川麻呂は許しませんでした。

また興志は推古天皇以来の皇居である小墾田宮を焼き払いましょうと提案しますが、石川麻呂はそれも許しませんでした。

山田寺
山田寺

蘇我倉山田石川麻呂 自害

649年(大化5年)3月25日、山田寺にこもった石川麻呂は、山田寺の僧たちと息子たちを前に、言います。

「臣下たる者がどうして君に謀反を企てようか。
今、無実の罪に問われた私だが、あの世へは
変わらぬ帝への忠誠心を持って赴きたいと思っている。
寺に来たのは、やすらかに最期を迎えるためだ」

石川麻呂は言い終わると仏殿の扉を開き、

「未来永劫、けしてわが君のことを恨み奉りません」

ワーーッ、ワーーッ

鬨の声とともに天皇方の軍勢が山田寺を取り囲み
ドカーーッと扉を蹴破って押し入ると、
御堂の中はシーンと静まり返っていました。

月明かりに照らされて、
鴨井にぶらさがっている、いくつかのカタマリが見えました。

すでに蘇我倉山田石川麻呂は
妻子ともども首を吊った後でした。

「ふん、やはりやましい所があったのだな」

ぶんと太刀を振って縄を切ると
ゴトリと石川麻呂の死体は床に落ちます。

首と胴体を太刀ですぷっと斬り離し、その首を
太刀の切っ先に高く差し上げ、

「逆臣蘇我倉山田石川麻呂を討ち取ったぞー」と叫びました。

無実の罪

その後、使者を遣わして蘇我倉山田石川麻呂の舘の資材を
すべて没収します。

その中に、「この舘のものはすべて皇太子さまに差し上げます」と
書かれていました。

中大兄はその報告を受けて、

「では、石川麻呂は裏切っていなかったのか!
我は無実の者を、死に追いやってしまったのか!ああ!」

大変な衝撃を受けました。

遠智娘の死

さて中大兄皇子の妻蘇我造媛(そがのみやつこひめ)は蘇我倉山田石川麻呂の娘です。別名を遠智娘(おちのひらつめ)とも(ただし蘇我造媛と遠智娘は別人とする説も)。

遠智娘
遠智娘

遠智娘にとっては父が夫に殺されたようなものです。

「あああ父上!父上!」

遠智娘は泣き叫び、食事も喉を通らなくなり、
ついに死に至りました。

中大兄は、まさか妻が死んでしまうとまで思わなかったようで、たいそう嘆き悲しみました。悲しむ中大兄に、臣下の者が歌を奉ります。

山川に 鴛鴦(おし)二つ居て 偶ひよく 偶(たぐ)へる妹(いも)を 誰か率(い)にけむ

(山川にオシドリが二羽いて連れ添っているが、そのように連れ添っている片割れを、誰が連れ去ったのだろうか)

本毎(もとごと)に 花は咲けども 何とかも 愛(うつく)し妹(いも)が また咲き出来(でこ)ぬ

(株ごとに花は咲いているのに、どうして愛しい妻はふたたび姿を見せてはくれないのか)

中大兄は涙にくれながら「よい歌だな。悲しい歌だな」と言い、琴にあわせて歌わせ、歌を詠んだ者に褒美を取らせました。

事件の真相

以上、だいたい『日本書紀』に沿って語りました。『日本書紀』では蘇我日向の讒言をうのみにした中大兄が、蘇我倉山田石川麻呂を討伐させたかのようなストーリーになっています。しかし実際には違うでしょう。

蘇我倉山田石川麻呂は難波宮で孝徳天皇と何かと意見があわず、孝徳天皇は蘇我倉山田石川麻呂を煙たく思っていました。そこで天皇自身が指示を出して蘇我倉山田石川麻呂を排除したものと思われます。

白雉

蘇我倉山田石川麻呂謀殺事件の翌年の650年2月。

長門国で白い雉が捕獲され、孝徳天皇のもとに献上されました。

「これはめでたい。古来、白い雉は吉兆とされる。 天がわが政権を認めてくれている証拠だろう。 これより大化をあらため、白雉元年とする」

蘇我倉山田石川麻呂の排除、という血なまぐさいことをやる一方で、孝徳天皇はこうしてわが政権の正当性をアピールすることも忘れていませんでした。

次回「有馬皇子の変」に続きます。

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第一部「飛鳥時代篇」は、
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藤原仲麻呂の乱・
桓武天皇の即位から長岡京遷都の直前まで。

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