毛利輝元(十)関ヶ原前夜

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こんにちは。左大臣光永です。引っ越しに向けて連日、部屋の片づけをしています。おおっ、この本、こんなとこにあったのか。このCD、懐かしい~などといちいち思い出にひたって、なかなか作業が進みません。困ったもんです。

さて。

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というわけで。

本日は「毛利輝元(十)関ヶ原前夜」です。

↓↓↓音声が再生されます↓↓

http://roudoku-data.sakura.ne.jp/mailvoice/Sengoku_Terumoto10.mp3

前回までの話
http://history.kaisetsuvoice.com/cat_Sengoku.html#Terumoto

小早川隆景 逝く

小早川秀秋の養子縁組を実現してから3年目の慶長2年(1597)6月、

小早川隆景は三原城(広島県三原市)にて帰らぬ人となりました。死因は脳卒中だったようです。享年65。

時あたかも二回目の朝鮮征伐「慶長の役」が始まっており、隆景は最後まで出征兵士の名簿作成など、事務手続きに追われていました。

遺骸は小早川家の菩提寺である米山寺(べいさんじ。広島県三原市)に葬られました。

小早川隆景。

毛利両川の一翼として、兄・吉川元春とともに長く毛利家を支えてきた人物でした。慎重かつ冷静。そして外交上のしなやかな立ち回りは父元就ゆずりだったでしょうか。

「風になびく柳」

隆景の人柄はそのように称えられています。

「叔父上が…そんな…ああ…」

知らせを受けた毛利輝元はガックリと肩を落とします。

「今後、毛利は世間からさげずまれることになるだろう。
叔父上あっての毛利だったのに…」

どこまでも人任せな輝元ですが…つまりそこまで、小早川隆景の存在は大きかったのでした。

隆景の死後、隆景の遺臣はほとんどが毛利輝元の家臣として取れこまれ、小早川家は秀秋が連れてきた家臣を中心に再編成されます。

つまり同じ小早川家といっても、以前の小早川家とはまったく中身の違うものになってしまいました。こうして。

元就の築いた「毛利両川」体制は、完全に崩壊しました。

小早川隆景亡き後の毛利家

小早川隆景無き後の毛利家は、吉川広家と輝元の養子・毛利秀元が中心となります。

しかしかつての「毛利両川」の結束にはほど遠いものでした。

毛利両川体制の崩壊
毛利両川体制の崩壊

吉川広家は父元春と同じく根っからの武人肌であり、二度目の朝鮮征伐「慶長の役」で無謀な先駆けをしました。それを安国寺恵瓊になじられます。その件をはじめ吉川広家と安国寺恵瓊は何かにつけて対立しました。

また、吉川広家は毛利・小早川間での所領地の再分配について不満があり、秀元に対しても不満をたぎらせていました。

このように毛利家はかつてのまとまりを失っていました。

小早川隆景の存在が、どれほど大きかったか!

失ってはじめて毛利家の人々は知ったことでしょう。

秀吉の逝去

慶長3年(1598)8月18日、天下人豊臣秀吉が伏見城で亡くなります。享年62。死の間際、秀吉は五大老・五奉行を呼び、十一箇条からなる遺言を出します。また五大老の中で特に徳川家康を名指しして、

「後のことは頼みましたぞ。
秀頼が成人するまでは、政治を見てやってくだされ」

こう命じたことで、家康は五大老の筆頭扱いとなりました。

五大老
徳川家康、前田利家、毛利輝元、宇喜多秀家、上杉景勝(はじめは小早川隆景。隆景が死んだことにより上杉景勝となった)

五奉行
浅野長政(あさの ながまさ)、石田三成、増田長盛(ました ながもり)、長束正家(なつか まさいえ/ながつか まさいえ)、前田玄以(まえだ げんい)

徳川家康、天下取りに乗り出す

秀吉の死後、五大老の決議により、まず行われたのが、朝鮮からの撤退です。

長引く不毛な遠征に、誰もがウンザリしていましたからね。

その後、家康は天下取りに向けて、ロコツに動き出します。

大名同士の縁組は法度により禁じられていましたが、家康は公然と法度を破ります。伊達政宗の長女と自らの六男・松平忠輝を婚姻させたのを始めとして、福島正則・黒田長政とも姻戚関係を結ぼうとします。

「それはちょっと…」

文句を言いたくても、誰も文句が言えませんでした。家康は秀吉より五大老の筆頭に任じられていたからです。

また家康は、島津義弘・増田長盛など親豊臣派の大名の屋敷に足しげく訪れるようになります。

「自分に味方するか。それとも敵に回るか」

見極めようとしたんでしょう。

石田三成襲撃事件

「おのれ家康…、これ以上の勝手、許せぬ」

五奉行の筆頭・石田三成は怒りをたぎらせます。毛利輝元は、五大老の一人として前田利家とともに石田三成に加担します。

また、豊臣家臣団も一枚岩ではありませんでした。

石田三成らの文治派と、加藤清正・福島正則らの武断派が対立を深めていました。特に朝鮮遠征における査定に対する不満から、両者は関係を悪化していました。

慶長4年(1598)閏3月、前田利家が死にます。

前田利家は三成ら文治派と加藤清正・福島正則らの武断派の間にあって、両者のバランスを取る調整弁でした。その前田利家が死んだことで、両者のバランスが崩れました。

ほどなく事件が起こります。

武断派の七将(加藤清正(かとう きよまさ)、福島正則(ふくしま まさのり)、細川忠興(ほそかわ ただおき)、浅野幸長(あさの よしなが)、黒田長政(くろだ ながまさ)、蜂須賀家政(はちすか いえまさ)、藤堂高虎(とうどう たかとら))が、石田三成の大坂屋敷を襲撃しました。

しかし石田三成は佐竹義宣の手引きですでに大坂屋敷を逃げ出しており、その後、京都の伏見城に逃れます。

※ドラマなどではここで三成は敵である徳川家康のもとに逃げ込んだと語られますが、作り話です。

怒り狂って伏見城に迫る七将。そこに出てきたのが家康です。

「三成殿は隠居ということでいいだろう。
それと朝鮮遠征の査定をやり直す」

結局、家康の仲立ちで石田三成は五奉行を退くこととなり、佐和山城(滋賀県彦根)に隠居となります。

「まあ、そういうことなら」

七将は矛を収めました。

毛利輝元、大坂城へ入る

慶長5年(1600)5月。

徳川家康は、豊臣五大老の一人・上杉景勝が上洛命令を無視して会津に留まっているのは謀反の疑いありとして、上杉討伐を決定。

6月。

福島正則・黒田長政・細川忠興らを率いて会津へ向かいます。

天下分け目の一大合戦を前に、毛利家当主毛利輝元は決断を迫られることとなりました。

「吉川広家、安国寺恵瓊。両名は上杉討伐軍に合流してくれ」

「はっ」
「ははっ」

輝元は公の場ではそう言って吉川広家、安国寺恵瓊に指示を出しながら、一人安国寺恵瓊に対しては。

「佐和山城で三成殿と合流してくれ」
「わかっております」

そんな感じで、密命を与えたようです。

7月。安国寺恵瓊は会津には向かわず、石田三成の待つ佐和山城に入ります。三成は安国寺恵瓊・大谷吉継・増田長盛ら家康に不満を持つ者たちを集め、「西軍」を結成していました。

「西軍大将として、毛利輝元殿を御迎えしたい」

すぐに広島城の毛利輝元のもとに、安国寺恵瓊が石田三成の意向を伝えます。知らせを受けて毛利輝元は、

「同じ大老として上杉景勝殿を見捨てることはできぬ。
そして家康の専横。これ以上は許しがたし。
西軍大将の件、謹んでお受けしよう」

ふだんは優柔不断な輝元が、この時ばかりはキッパリと決断しました。おそらく事前に安国寺恵瓊との打ち合わせがあったのでしょう。

7月15日、輝元は軍勢を率いて広島城を出発。2日後の17日、大坂城に入り、秀頼公と淀殿に謁見します。

吉川広家、事の次第を知らされる

一方、吉川広家は。

毛利輝元の指令を受けて、軍勢を率いて月山富田城を出発。上杉討伐軍に加わるつもりでいました。ところが。播磨で安国寺恵瓊の家来と出会います。

「輝元公が大坂城に入られます。急がれよ」
「は…?」

7月14日。使者に導かれるままに輝元公到着前の大坂城に入った吉川広家は、安国寺恵瓊より事の次第を知らされました。

「な…三成と組んで家康と戦うですと!」

絶句する広家。

「そんなことをすれば毛利家は滅亡だ。早く止めなくては!」

あわてて広島城の毛利輝元に使者を送りますが、すでに毛利輝元は軍勢を率いて大坂城に向かっており、行き違いになってしまいました。

そうこうしているうちに、大坂城には宇喜多秀家・島津義弘・長曾我部盛親など…西国の名だたる武将たちが集まってきます。

その中に小早川秀秋の姿もありました。

小早川秀秋。

秀吉の親類であり、小早川家に養子に入りました。豊臣方として西軍に加担するのは当然といえましたが、さて。

次回「関ヶ原」に続きます。お楽しみに。

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本日も左大臣光永がお話しました。
ありがとうございます。ありがとうございました。

解説:左大臣光永