毛利輝元(三)毛利と織田
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こんにちは。左大臣光永です。ゴールデンウィークをいかがお過ごしでしょうか?
私は4月から引き続き実家の熊本に滞在しています。連日温泉に入ってます。昨日は近所の「鶴の湯」で樽風呂に入ってきました。
樽風呂は楽しいです。
満々とお湯をたたえた樽の中に入る。ざざーーと湯があふれ流れる。一寸法師のお椀の船の風情です。すぐ横の露天風呂から、ツーリングの旅行者と思しき二人が、
「明日は鹿児島まで抜けるか~」なんてことを話してる。しみじみと、風情がありました。
さて。
先日新発売しました「聴いて・わかる。日本の歴史~下剋上と戦国時代の幕開け」大好評をいただいています。ありがとうございます!
http://sirdaizine.com/CD/His06.html
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さて本日は「毛利輝元(三) 毛利と織田」です。
↓↓↓音声が再生されます↓↓
http://roudoku-data.sakura.ne.jp/mailvoice/Sengoku_Terumoto03.mp3
織田・毛利 決裂への道
1573年、織田信長は足利義昭を追放し、室町幕府を滅ぼしました。勢いづいた信長は、越前の朝倉氏・北近江の浅井氏をも滅ぼします。
あと残っている敵は、長島の一向一揆宗。
その総元締めである石山本願寺。
武田信玄の跡を継いだ武田勝頼。
越後の上杉謙信。
そして毛利氏に対しても信長は目を光らせていました。
元亀4年(1573)11月。
信長は備前の浦上宗景を備前・播磨・美作三ヶ国の守護に任じ、全面的に支援します。毛利との国境に位置する浦上宗景を織田方に抱き込むことで、毛利との防波堤にしようとしたわけです。
浦上宗景と宇喜多直家
「頼むぞ浦上。毛利への抑えとなってくれ」
その浦上宗景を裏切った男がいました。宇喜多直家です。
宇喜多直家は浦上宗景の家臣となっていたとはいえ、もともとは対等の立場であるという自負があり浦上宗景の家臣でいることに、納得していませんでした。
その上、毛利につけと繰り返し誘われ、浦上を裏切るに至りました。
「いろいろありましたが、毛利に忠誠を誓います」
「うむ…頼むぞ」
毛利輝元は宇喜多直家を、何としても毛利方に引き込みたく思いました。宇喜多は信長との最前線の山陽道に位置し、いざ信長と戦になった時はクッションになると輝元は考えました。
最悪、織田が侵攻してきた場合、宇喜多だけを切り捨てて、その間に信長と講和する…そんなプランも考えていたでしょう。
とはいえ、件の宇喜多直家も智慧が回り、信用できない男でした。
毛利輝元は宇喜多直家を疑いました。
「宇喜多直家。食えない男だ…。
毛利が不利と見ると、いつ織田に寝返るかわからぬ。
よくよく注意せねば…」
そんなふうに、輝元は宇喜多直家を心底信用してはいないものの、さしあたっては信長への防波堤として毛利方に引きとどめざるを得ない。という状況でした。
こうして山陽道では、織田方の浦上宗景と、毛利方の宇喜多直家が向かい合い、一触即発の空気となってきました。
とはいえ浦上宗景・宇喜多直家…両者の背後にいる織田信長と毛利輝元は、依然として友好関係を保ったままでした。
堺の足利義昭
さて。
信長に追放された足利義昭は、河内の若江に、ついで堺に拠点を置き、全国の大名に書状を送り続けました。
「信長を滅ぼし、余をふたたび上洛させてくれ」
毛利輝元のもとにも義昭の書状が届きます。それも一度ではなく、何度も、しつこく届きました。
「やれやれ…困ったお方だ」
毛利輝元は足利義昭に手を貸している余裕はありませんでした。いまだ根強く抵抗を続ける出雲の尼子氏、北九州の大友氏と東西二面に敵をかかえ、信長を討つどころではありませんでした。
「とはいえ、天下の室町将軍をお見捨てるわけにもいかぬ。
ここは毛利家で仲立ちをしてさしあげよう」
それは毛利家にとっても利益になることでした。輝元は、信長と戦になることを何よりも恐れました。何としても信長との戦は避けなければならない。
一番恐ろしいシナリオは、義昭が毛利領内に亡命してきて、信長に毛利討伐の大義名分を与えてしまうことでした。
そのため、さっさと義昭と信長を和解させ、毛利は両者の争いにかかわらない。カヤの外であるという立場に立ちたかったわけです。
そこで毛利輝元は、安国寺恵瓊を使者として、堺に遣わします。
足利義昭と織田信長の間を取り持ち、義昭がふたたび上洛できるように、その交渉役としてです。
一方、織田方の交渉役は羽柴秀吉。
安国寺恵瓊
毛利方の安国寺恵瓊も、織田方の羽柴秀吉も、足利義昭が京都に戻ることに別段異存はありませんでした。そのままいけばすんなり交渉はまとまったはずですが、義昭がワガママを言います。
「信長から私のほうに人質をよこせ」
こういう条件を言い出した。お前自分の立場わかってんのかよって話ですが、義昭の頭の中ではいまだに自分は誇り高き足利将軍。臣下にただで屈することなどできないという考えがありました。
「いやそれはちょっと」
「ううん…難しいのではないですか」
羽柴秀吉も安国寺恵瓊も双方頭をかかえ、交渉が難航します。
「どうかお考え直しください」
「これだけは譲れぬ」
「そうはおっしゃいましても、これはムリです」
「余は将軍であるぞ!将軍にムリなどあるものか」
こんな調子でしたので、ついに羽柴秀吉はさじを投げます。
「そのような条件はとうてい飲めませんから、もう勝手にどこへでも行ってください。
将軍はす行方不明になったと、報告しておきます」
そう言って秀吉は大坂に立ち去っていった…
ぽかーーんとする義昭。
「な、なんじゃあの態度は!あれが将軍に対する態度か!!」
「公方さま、抑えてくだされ」
安国寺恵瓊はその後もねばり強く義昭を説得しようとしましたが、義昭は頑として譲りませんでした。
「では、せめて毛利領内への亡命はしないでください」
「うむ。それは約束しよう」
安国寺恵瓊は足利義昭から、毛利領内への亡命はしないという約束だけは、かろうじて取り付けました。今回の交渉の、唯一の成果と言えました。
その後、足利義昭は家来20人ばかりを連れて堺を脱出・紀伊の由良に逃れます。
さて安国寺恵瓊は、今回の足利義昭上洛の交渉を行った帰り道、吉川元春に対して書状を送り、その中で予言めいたことを書いています。
「信長の代はあと5年、3年は続きます。来年あたりは公家になるでしょう。しかしその後は大ゴケします。一方、あの羽柴秀吉という男はひとかどの者です」
恵瓊の目は未来を見据えていたようです。
三村討伐
天正2年(1574)、織田信長は備中松山城城主・三村元親に調略をしかけ、毛利から離反させます。
三村元親の父三村家親はかつて毛利方・宇喜多直家に殺されており、三村元親は毛利家に対して恨みを持っていました。
そこへ信長からの支援の話があり、三村元親は反毛利の旗揚げを決意しました。
「なに!三村元親が背いた!」
毛利輝元には根耳に水でした。すぐさま備中高松城主・清水宗治(しみず むねはる)と組んで、三村元親を松山城に攻めます。
三村元親は、いざ反毛利で挙兵すれば信長が支援してくれるものと期待していました。だからこそ、反乱に踏み切ったのですが。
しかし。
信長からの援軍はいっこうにあらわれない。
「ど、どういうことだ!!」
翌天正3年(1575)松山城は陥落。三村元親は追い詰められて、自刃しました。信長としては、この時点では毛利との直接対決は時期尚早と考えていました。今回の三村元親支持はあくまで毛利のけん制が目的でした。
三村元親は信長から捨て駒にされたのです。
織田信長の躍進
その間、信長は急激に力をつけていました。
天正2年は大きな成果もありませんが、翌天正3年(1575)が!信長にとって飛躍の年となりました。
4月、畿内で河内の本願寺高屋城(たかやじょう。現大坂市羽曳野市)を攻撃し、三好長慶を降伏させます。
5月、長篠の合戦で武田勝頼に大打撃を与えます。鉄砲を最大限に活用したことは歴史の教科書でよく知られていますね。
8月、越前に5万の軍勢を繰り出し、一向宗門徒を徹底的に殲滅します。
9月、明智光秀を丹波に派遣し、丹波の平定に当たらせました。たいへん忙しく、成果の上がったことでした。
この年、信長は官位も獲得しました。11月の除目で、従三位権大納言兼・右近衛大将に叙せられます。いよいよ天下人として歩み出した感じの年ですね!
「よし。下地作りは整った」
そう考えてか、信長は嫡男の信忠に家督を譲り、美濃・尾張の管理を任せると、一時、臣下の佐久間信盛(さくま のぶもり)の屋敷に仮住まいしますが、やがて琵琶湖のほとりに巨大な城を造営し始めます。何という城ですか?
安土城。
そうです。あの安土城の造営にいよいよ信長は着手し、安土城から天下に号令しようという構えでした。
「次は毛利ぞ…」
信長の目は遠く中国の毛利を見据えていました…
次回「第一次木津川口の海戦」お楽しみに。
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本日も左大臣光永がお話しました。
ありがとうございます。ありがとうございました。