毛利輝元の生涯(一)元就、没す
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こんにちは。左大臣光永です。近所に小さな会社の営業所があって、その入り口のところに段ボールの小さな箱が置いてあって、中に新聞紙がしきつめてあったんですよ。「ん?」と見たら、「ツバメのおトイレ。さわらないでね」と書いてあって、
上見ると、なるほどツバメの巣が。ははあ、あそからフンが落ちてくるのを、受け止めるのかと、ほほえましく思えました。
さて。
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さて本日から「毛利輝元の生涯」をお送りします。
毛利元就の孫・毛利輝元。関ヶ原では石田三成に要請されて、西軍の大将となりました。では関ヶ原で輝元は大将として何をしたのか?「何もしなかった」んですね。一切、動きませんでした。
なぜなのか?
そして、祖父毛利元就は地方領主から始まって10ヶ国領有するまで毛利家を大きくしたのに、関ヶ原の後、毛利家は周防・長門二ヶ国に減らされてしまった。
それは、当主の輝元が無能であったせいだ。凡庸だったからだ。
このように「無能・凡庸」という言葉で語られることが多い毛利輝元ですが、実際どうだったのか?その波乱に満ちた生涯を、8回にわたって、たどります。
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毛利輝元 出自
毛利輝元は天文22年(1553)、毛利隆元の嫡男として安芸国・吉田郡山城(広島県安芸高田市)に生まれます。幼名・幸鶴丸(こうつるまる)。母は尾崎局(おざきのつぼね)。
毛利輝元
吉田郡山城
幸鶴丸が生まれた時、幸鶴丸の父・毛利隆元は31歳。そして偉大なる祖父・毛利元就は57歳でいまだ現役でした。
父 毛利隆元の死
父・毛利隆元は、祖父毛利元就に比べればはるかに凡庸な人物でした。押しが弱く、戦国武将としての気概に欠けました。しかし元就は、出来の悪い息子ほどかわいいの法則通り、隆元をとても愛しく思っていました。
ところが、
永禄6年(1563)8月、
出雲遠征のさなか、毛利隆元は安芸国佐々部(ささべ。広島県安芸高田市)にて、亡くなってしまいます。享年41。突然の死でした。食中毒であったと言われますが…詳細は不明です。
毛利元就は出雲の前線基地・荒隈(あらわい)城で隆元の死を知りました。
「おおおおお……隆元!なぜじゃああ!!」
毛利元就の落胆は、たいへんなものでした。敵に対しては容赦のない権謀術数を駆使し、卑怯な裏切りも辞さない毛利元就でしたが、家族のつながりを誰よりも大切にした人物でもありました。「三本の矢」のエピソードに象徴されるように、毛利家の結束はきわめて固いものでした。
そのうちの一本の矢が、こつぜんと姿を消したのでした。
輝元は、11歳にて父無し子になってしまいました。
父無し子となった輝元を、母尾崎局はみずから熱心に育てます。たびたび義理の父である元就が輝元の養育について口をはさんできましたが、
「ありがとうございます。
でも、輝元の教育は私がきちんとやっておりますので」
口をはさまないでください。そんな勢いでした。そのほか、側近や乳母も輝元の教育にあたっていました。
「まあ今はとやかく言うまい…」
毛利元就は孫の養育に距離を置きました。
毛利の当主となる
永禄8年(1565)、13歳の幸鶴丸は元服し、毛利輝元と名乗ります。「輝」の一字は室町幕府13代将軍・足利義輝からいただいたものでした。こういうのを偏諱(へんき)といいます。
輝元が当主になったといっても、13歳ですからね。毛利家の運営をすぐに輝元にゆだねるわけにはいきませんでした。当面は、祖父である毛利元就が実際の政治を行いつつ、若き当主輝元に、当主としての教育を実地でさずけていきます。
元就は、早く輝元を一人前に育て上げて、隠居したいと思っていました。
永禄10年(1567)輝元が15歳になった頃、元就は輝元に言います。
「私はいずれ隠居するから、お前、後はシッカリやるのだぞ」
「と、とんでもございません!お祖父さまあっての毛利家てす!
私一人でやるなんてムリです」
「しかしなお前、いずれは一人立ちせんといかんのだから」
「いいえ!お祖父さまが隠居なさるなら、輝元も隠居場所についていきます」
……
「はあ…困ったもんじゃ。隠居したくても隠居できん」
そこで元就は、自分の息子であり輝元の叔父にあたる、吉川広家、小早川隆景、それと毛利の分家である福原貞俊(ふくはら さだとし)、口羽通良(くちば みちよし)に輝元の補佐をさせます。
「よいか輝元、広家と隆景は多くの戦をくぐり抜けてきた古兵」
「はい。厳島合戦の折のご活躍は、何度も聞いております」
「うむ、お前も二人の指導をよく受けて、立派な当主になるのだぞ」
「はい。私はお祖父さまのおっしゃることならば、何事でも従います」
「う…うむ…」
輝元は万事、人まかせでした。自分で考えて動くということがありませんでした。
「困った孫じゃわい」
輝元の主体性の無さに、元就は頭を抱えます。
(それはいつまでもワシが見ていられれいいが、人間には寿命がある。ワシももう長くない…)
69歳の毛利元就は、自分の死がそう遠くないことを予感していました。
足利義昭 15代将軍となる
天下の情勢は動いていました。
永禄11年(1568)10月末。織田信長が足利義昭をともなって上洛します。
足利義昭は兄である13代将軍足利義輝が暗殺されてから近江や越前を転々として亡命生活を送っていましたが、織田信長に迎えられ、将軍となるべく上洛することになったのでした。
「ようやく!ようやく念願がかなう!」
喜びの涙にむせぶ足利義昭。
足利義昭は正親町(おおぎまち)天皇より征夷大将軍に任じられます。
15代将軍足利義昭です。
毛利元就、没す
元亀2年(1571)、毛利元就の体調が悪化します。
3月、一時体調が回復した毛利元就は、吉田郡山城に知人を招き、花見の宴を設けます。その席で、
友を得てなほぞ嬉しき桜花
昨日にかはる今日の色かは『名将言行録』
友を得たことで、いっそう桜の花を見るのが嬉しく思える。
今日の花の色のすばらしさは、昨日の花の色に代えることができるだろうか。いやできない。
またこの宴の席あたりだったでしょうか。孫の輝元・息子の吉川元春・小早川隆景に訓戒します。
「お前たち、五か国・十か国が手に入ったのは、たまたまた運がよかっただけじゃ。今ある領国に満足して、けして天下を望むような野心を起こしてはならんゾ」
その後、体調がふたたび悪化し、元亀2年(1571)6月14日、吉田郡山城にて逝去。享年75。
翌日、遺骸は吉田郡山城山麓の大通院(だいづういん)で荼毘に付され、洞春寺(とうしゅんじ)跡として伝わる吉田郡山城山麓に葬られました。
安芸の一地方領主から10ヶ国所有の大大名にまで成り上がった、智将・毛利元就。幼くして父・母と死に分かれ兄とは切り離され、誰よりも家族のつながりを強く望んだ元就は、三人の息子たちによる毛利家の結束を強め、毛利家を中心に、吉川家・小早川家がその両翼を支える、毛利両川体制を形にしました。
一方、敵に対しては容赦がなく、さまざまな権謀術数を駆使して、競争相手を次々と滅ぼし、葬っていった、毛利元就。その人の大往生でした。
「ああ…お祖父さま、お祖父さま…」
残された当主・毛利輝元は19歳。これまで何でも祖父・元就の言いなりにやってきた。それでうまくいっていた。しかし、今やその元就はいない…
「殿、何もご心配はございません。我々が、殿をお支えします」
「ああ小早川の叔父上…(しかしお祖父さまほど頼りにはならないなあ)」
吉川元春・小早川隆景・福原貞俊・口羽通良。
このうち吉川元春は出雲に遠征中でしたが…
この四人が、元就没後も引き続き毛利輝元の政権を支えていきます。
次回「毛利輝元(二)室町幕府の滅亡」に続きます。
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本日も左大臣光永がお話しました。
ありがとうございます。ありがとうございました。