豊臣秀次 切腹事件
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先日、駅のホームで、小学生くらいの男の子が、おもちゃの車掌さんの帽子をかぶって、「京都方面は三両編成で参ります。白線の後ろまで下がってお待ちください。あぶないですよ。白線の後ろまで下がってください」とか、一生懸命アナウンスしてたのが可愛かったです。お母さんが「この子は電車好きなんですよね~」といって笑ってて、ほがらかな空気が流れました。
さて本日は「豊臣秀次 切腹事件」です。
豊臣秀次といえば、秀吉に跡取りが生まれたために邪魔になって切腹を命じられた、妻や子が30人あまり処刑された、まことに凄惨な事件であった…そんな感じで記憶している方が多いと思います。
たしかに凄惨で痛ましい事件なのですが、この秀次事件にはよくわからない部分が多いです。最近では以前とだいぶ違う解釈も出てきています。
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豊臣秀次(1568-1595)は秀吉の姉ともの長男で、秀吉の養子です。
嫡男鶴松を幼くして亡くしていた秀吉にとって、秀次は唯一の後継者でした。小牧・長久手の戦いでは敵に敗北を喫し秀吉から叱責を受けるという一幕もありましたが、その後は四国攻め・北条攻めでも武勲を立てて、天正19年(1591)秀吉から関白職を譲られていました。
何かと秀吉に目をかけられ、後継者として可愛がられてきたと言えます。
ところが。
文禄2年(1593)8月、秀吉と側室の茶々(淀殿)との間にお拾=秀頼が生まれました。秀次の後継者としての立場はとたんに危うくなります。
「私は殺される…」
秀次は恐怖にかられ精神が不安定になります。
その恐怖が、秀次の精神を追い詰めていきました。
「きえーーーっ」
わけもなく人を斬りまくり、「殺生関白」と異名を取ったということですが…これは秀次を悪く印象づけるための創作とも言われています。
秀吉は
「そんな心配をするな。秀頼が生まれたからといって、秀次は大事な豊臣政権の柱じゃ。日本国を五つに分けて、その内四を秀次に、残る一を秀頼に与えよう」
そんな提案をしたり、秀頼に秀次の娘を嫁がせようなどと言い出します。
こういう状況の中、文禄4年(1595)7月3日、秀次と秀吉の間に突然「不和」が起こったと記録されています。
理由はまったくわかりませんが、医師が診察の際に、後陽成天皇よりも秀次を先に診察したことが秀吉に睨まれたとも言われています。
すぐさま石田三成・増田長盛が秀次のもとに赴き、問いただします。
「関白さまに謀反の疑いがかかっております」
「そんなバカな!謀反などと!太閤さまに話をさせてくれ!!」
7月8日、秀次は弁明のため、伏見城を訪れますが、固く門を閉ざされ、入れてもらえませんでした。関白職も解かれてしまいます。
「もうダメだ…ワシは謀反人として討伐される」
そう思った秀次はその日の夜半に髻を切り、高野山に入りました。
「なに!秀次が出家…!」
秀吉は頭を抱えながらも、こうなったからには仕方ない。諸大名には「秀次は謀反を企てたため高野山に追放した」と公式発表します。そして高野山には秀次の監視を命じました。
そして7月15日。秀吉の怒りが解けないことを知った秀次は、身の潔白を証明するために自ら腹を切りました。享年28。
「なんという…では秀次は無実だったのか…!!」
絶句する秀吉。しかし、もうどうしようもない。秀次は無実でした、では世間に通用しない。豊臣政権は正義である必要がありました。あくまで「秀次が謀反を企んだので討伐した」という筋書きが必要でした。
8月2日。「謀反人」秀次の妻子・愛妾39名が京都三条河原で処刑されました。聚楽第は破壊され、秀次にかかわるすべてのものは抹消されました。
三条河原
京都市中京区の瑞泉寺(ずいせんじ)は、豊臣秀次の菩提を弔うために慶長16年(1611)角倉了以(すみのくらりょうい)により創建された寺です。高瀬川にかかる三条小橋のたもとにあります。境内には豊臣秀次の墓石と、秀次の子、妻、愛妾、家臣を供養する五輪の塔49柱があります。
瑞泉寺
瑞泉寺
瑞泉寺
以前は秀次事件といえば跡取りの拾が生まれたために秀次が邪魔になった秀吉が、秀次に切腹を命じた、という筋書きでしたが、最近はこのように、秀次自ら腹を切ったという説が出てきています。
滋賀県の近江八幡は豊臣秀次が開いた町です。
近江八幡 八幡堀
天正13年(1585年)秀吉が関白となったのに伴い、18歳の豊臣秀次は近江43万石の領主となりました。秀次は八幡山城を築き、城下町を整え、かつての安土城下と同じく楽市・楽座制度を行い商業を盛んにしました。
また八幡堀と呼ばれる運河を開き、琵琶湖を往来する船を八幡山城下に寄港させました。
こうした豊臣秀次の政策が、近江商人と呼ばれる近江に拠点を置く行商人たちが活躍する基盤ともなりました。
近江八幡 八幡堀
豊臣秀次の開いた八幡堀は昭和30年代にはすっかりドブ川のようになっていましたが、市民の清掃活動より美しい水路として蘇りました。現在も堀端には白壁の土蔵が並び、春には桜や花ショウブが水辺を彩り、市民の、観光客の、憩いの場となっています。
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