応永の乱

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大内義弘と足利義満の対立

この頃西日本では大内氏が勢いをのばしていました。大内氏は百済の聖明王の子孫を自称し、もともと周防(山口県)を根拠地としていた一族です。

尊氏の時代は南朝につきましたが、後、北朝に鞍替えします。今川了俊に従って九州の南朝勢力を討伐しました。その功績により、大内氏は周防・長門の守護職を与えられます。

その後、明徳の乱(1391)で大内氏当主・大内義弘は山名氏を討伐するのに大いに戦働きがあっため、和泉・紀伊の守護職を与えられます。これにより大内氏はあわせて六か国を統治する大勢力となりました。

また、大内義弘は南北朝の合一(1392)の交渉においても功績がありました。そのため義満は、大内家に対して「足利家に準ずる扱いとする」という親書を与えました。

とにかく、大内義弘の勢いは盛んでした。その一方で義弘は、傲慢にもなっていきました。義満が北山第を造営する時に、各地の守護からそれぞれ人員を割かせようとした時に、

「私の武士どもは土木工事などはしません。戦働きをしてるんだから、それでじゅうぶんでしょ」てなことを言いました。

「ううむ…大内義弘、つけあがりおって」

義満も、カチンとくるわけです。

九州では少弐氏・菊池氏といった、いまだ幕府に従わない者たちがおり、九州探題・渋川満頼は手を焼いていました。そこで義満は、

「大内義弘、すぐに九州へ向かい、九州探題・渋川満頼を助けて少弐・菊池を討伐せよ」

そう命令しました。義満の命令を受けた大内義弘は九州へ向かい少弐・菊池の軍を破ります。しかし、後日、大内義弘の耳によからぬ噂が入ってきます。

「将軍さまが大内殿に九州討伐を命じたのは、大内殿が少弐・菊池らに負けて、討ち死にすることを狙ってのことですぞ」

「なにっ…!?俺を殺そうとしたっていうのか」

こういうことがあり、大内義弘の中で、足利義満への不信感が高まっていきます。一方、義満も、日に日に勢いを増し傲慢になる大内義弘のことを「あれはキケンだ…」と感じていました。大内義弘と足利義満の決裂は、いずれ避けられない空気になってきました。

大内義弘 不平分子を集める

「足利と戦う。それはいい。だが、大内だけでは勝てぬ。やるなら味方を集めなければ…」

そう考えた大内義弘は、今川了俊の仲介で鎌倉公方・足利満兼に接触します。

足利満兼は、いつか将軍家の地位を奪ってやろうと、虎視眈々と狙っていました。

もともと鎌倉公方という役職は尊氏が、頼りない息子・義詮を補佐するために関東の守りとして設置したものです。しかし、しだいに京都の将軍家とは別の、独自の勢力を持つようになり、事あるごとに京都の将軍家と対立していました。そんなわけで、大内義弘は足利満兼殿なら味方になってくれると踏んだのです。しかも、仲介役の今川了俊も義満に不満を持っていました。今川了俊は義満によって一方的に九州探題の職を奪われ左遷されていたのです。不平分子の今川了俊に、同じく不平分子である足利満兼への仲介をたのむ。これは、うまくいくわけです。

「わかりました。必ず相応じて、挙兵しましょう」

足利満兼は協力を約束しました。

こんなふうに、大内義弘は足利政権に不満を持つ者たちに声をかけて、味方に引き込んでいきました。

先年の土岐康行の乱で没落していた美濃の土岐詮直(よしなお)、明徳の乱で討たれた山名氏清の嫡男・時清、近江の京極秀満も大内の味方につきます。比叡山や興福寺の衆徒も協力を約束しました。

「いよいよ、憎き足利義満に、一矢報いるときが来た!」
「われらが恨み、思い知れ!」

そんな感じだったでしょうか。さて…

交渉

応永6年(1399)10月、大内義弘は九州・中国の味方を集めながら山陽道を東へ進み、弟の弘茂とともに軍勢を率いて和泉国・堺に入りました。

「なに!大内義弘が謀反!」

慌てた義満は、大内の陣に使者を遣わします。

「とにかく、まずは上洛して将軍さまにお目通りをされよ」
「…断る」

大内の意思は固いものでした。義満は困ります。

「だめか…」
「いえ将軍さま、あきらめてはなりません。今度は私が交渉に行きましょう」

禅僧の絶海中津(ぜっかいちゅうしん)です。よし行ってきてくれ。

こうして絶海中津が大内の陣に赴き、再度上洛を促します。しかし、

「うるせーな!何度来ても話すこたァねえよ。俺ァさんざん幕府のために働いてきたんだ。だのに、弟が九州で戦死した時も恩賞は出なかったし、あろうことか、俺を罠にはめて殺そうとしたじゃんかよ!」

「だから、それは事実無根である」

「とにかく、俺ァ鎌倉公方と約束したんだ。一緒に京都に攻め上ろうってな」

「な!」

「だから、俺だけ先に上洛するわけにはいかぬ。それは、約束破りになる。鎌倉公方を待って、共に上洛するのだ」

「そなた、本気で言っているのか…」

「今頃鎌倉公方は、箱根を超えてる頃かなァ…ウヒヒ」

事実上の宣戦布告でした。これ以上は言っても無駄と、絶海中津は大内の陣を後にします。

開戦

絶海中津の報告を受けた義満は、

「そうか…もはや戦は避けられんか…。わかった。すぐに大内義弘討伐にかかれッ」

11月8日。義満は軍勢を率いて東寺に入ります。14日、男山八幡に布陣。相従う者どもは、細川満元・京極高詮・赤松義則を先陣として、畠山・斯波・吉良・石塔(いしどう)・渋川・一色・土岐・佐々木・今川・武田・小笠原・富樫・河野ら、都合その勢三万余騎。和泉へ向けて出発します。

大内義弘は堺に強固な城を建造し、籠城しました。そこへ

ウオーーーッ、ウワーーーッ。

11月29日。幕府軍三万がいっせいに鬨の声を上げて総攻撃を開始します。

ひゅんひゅん、ひゅんひゅん…

戦いは夜まで続き、双方に無数の死者が出ました。

各地の戦い

時を同じくして、各地で大内義弘に同心した者たちが蜂起します。時詮直は尾張を経て美濃へ。山名時清は丹波を経て京へ。京極秀満は近江から京への侵入をはかります。しかし、いずれも幕府方にはばまれ、容易には進めません。

再突撃

12月21日早朝。幕府軍は堺の城にふたたび総攻撃をしかけます。

「火を放てッ」

ごおーーーーっ

強風に乗じての火責めでした。

ワァーーーッ、ワアアーーーッ、

逃げまとう大内方。責め立てる幕府方。大内方はあそこに、ここに、討たれていきます。大将大内義弘も大勢に取り囲まれ、

「天下無双の名将大内義弘ここにあり。わが首取って、将軍の見参に入れよ」

ずば、ずばずばずば。どしゅ

「ぐ、ぐふう」

ばったり。

壮絶な、最期でした。享年45。こうして堺城は落城。応永の乱は終わりました。

足利満兼の場合

鎌倉公方足利満兼は武蔵府中から下野足利庄まで進撃していましたが、関東管領上杉憲定が、さかんに足利満兼をいさめます。

「鎌倉公方が将軍家に背くなどもっての他。それでは世の秩序はどうなります。ああ情けない口惜しい」

「そ…そうは言うがのう」

こんなふうにグズグズしている所に、「大内義弘戦死」の報告が届きます。「なんと…ああ…」足利満兼はガックリと肩を落として、鎌倉へ引き上げていきました。

後日、幕府からのお咎めを恐れた足利満兼は、三島大社に反省文を奉納しています。ほんの出来心で幕府にはむかいました。ごめんなさいと。

次回「勘合貿易」に続きます。

解説:左大臣光永

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