江戸城総攻撃 前夜

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こんにちは。左大臣光永です。

人形供養で有名な、粟嶋堂宗徳寺(あわしまどう・そうとくじ)に行ってきました。

京都駅烏丸口から徒歩10分の小さなお寺です。

境内に、奉納された人形が、たくさん飾ってあります。

日本人形、とくに市松人形が多いです。

市松人形て、髪の毛がのびるとか、夜歩くとか怪談のネタになることが多いですが、

そんな不気味な感じは一切なく、可愛らしく、微笑ましい印象を受けました。

やっぱり寺で清められているからでしょうか。

本日は「江戸城総攻撃 前夜」です。

徳川慶喜、江戸へ

慶応4年(1868)正月6日、鳥羽・伏見の戦いのさなか、徳川慶喜はわずかな家臣とともに大坂城を脱出しました。新政府軍との決戦を前にしての、敵前逃亡でした。

正月8日、慶喜一行は大坂天保山沖に停泊中の幕府軍艦開陽丸に乗って出航。


天保山

11日朝、江戸品川沖に到着。勝海舟に迎えられます。

12日朝、慶喜はいったん浜御殿(現浜離宮恩賜庭園)にはいった後、12日夜、江戸城西の丸に入ります。


浜御殿(現浜離宮恩賜庭園)


江戸城西の丸 伏見櫓

慶応元年(1865)に14代将軍家茂が江戸城を離れて以来、江戸城に将軍が入るのは3年ぶりでした。もっとも慶喜はもう将軍ではありませんでした。

徳川慶喜追討令

慶応4年(1868)正月7日。慶喜が大坂城を脱出した翌日、朝廷から徳川慶喜追討令が出されていました。

「慶喜による大政奉還は名ばかりの、欺きであった。去る正月三日に自ら先端を開いたことを見ても、慶喜の逆心は明白である。この上はすみやかに賊徒を平らげ、天下万民の苦しみを救おうという叡慮(天皇のお考え)である。賊徒と手を結び、またはかくまう者も同じく厳罰に処すであろう」

といった内容が二条大橋橋詰の制札場に掲げられました。新政府の中に慶喜と旧幕府勢力を平和的に取り込む…いわゆる「公議政体」路線は、ここに完全に潰えました。

正月10日には慶喜はじめ会津藩の松平容保(かたもり)・桑名藩の松平定敬(さだあき)らの官位を剥奪しました。

また新政府は諸藩に対し国力に応じて兵を差し出すよう求め、西国の多くの藩がこれに従いました。

諸外国に対しては新政府こそ唯一の政府であると宣言します。諸外国はこれから始まるであろう旧幕府と新政府の戦いに際し、局外中立をつらぬき、いずれにも味方しないことを宣言しました。

徳川慶喜の動向

その間、江戸城に集った旧幕臣たちは、これからどうするか?激しく議論を戦わせました。

「大坂城に大砲をブチこんでやれ!」
「いやいや、箱根で迎え撃つのだ」

などと、幕府役人の中でも勘定奉行小栗上野介や海軍総裁榎本武揚、歩兵奉行大鳥圭介らは主戦論でした。

「いま一度、戦うべきです」

会津の松平容保や桑名の松平定敬もそう主張しました。

フランス公司ロッシュは、慶喜に新政府への徹底抗戦をすすめました。そしてフランスを軍事顧問に任じてほしいと。

しかし慶喜はロッシュの提案には従いませんでした。

正月15日、慶喜は主戦派の筆頭・小栗上野介を罷免し、主戦派の声をおさえる一方、武力対決・平和的恭順の両方を視野に入れて、慎重に事を進めました。

武力対決の備えとしては品川沖の防備を強化し、箱根や碓氷峠の関所を固めました。平和的恭順に向けては、旧越前福井藩主・松平春嶽に書状を送り、新政府軍へのとりなしを頼みます。

「鳥羽・伏見の戦いは行き違いである。部下が勝手に始めたことである。追討令が出されたのは心外である」と(1月17日付 松平春嶽への書簡)。

さらに慶喜は、自分は引退して紀州の徳川茂承(もちつぐ)に徳川宗家を継がせたいとまでもらしました。

(やれやれ慶喜公はどうも現状をおわかりでない…)

松平春嶽は家老の本多修理を江戸の慶喜のもとに派遣します。

「新政府側が折れるなど、万にひとつもございません」

「そうか…事はそこまでに、至っていたか」

なにしろ慶喜が朝敵となったことは大きかったです。代々の徳川親藩であった出雲松江藩松平家、讃岐高松藩松平家、伊予松山藩松平家なども徳川を見限り、新政府軍についていました。

陸軍総裁勝海舟や、会計総裁大久保一翁らが、徳川慶喜を説得します。

「諸道ことごとく新政府軍になびいております。この上は徳川家を存続させる唯一の道は、謝罪恭順以外にございません。ひたすらあやまり、逆らわないことです」

勝海舟らの考えでは、フランスの援助を受けて戦えば、新政府軍はイギリスの援助を乞うだろう。フランス・イギリス両国の援助のもと、旧幕府軍・新政府軍が戦えば、両者疲弊しきったところで外国に国を乗っ取られるだけである。もっとも苦しむのは民である。それだけは避けなければならないと。

そして薩摩の西郷隆盛も同じことを考えていました。

西郷は大坂のイギリス公使館にてアーネスト・サトウより「イギリスが新政府軍を軍事援助しましょう」ともちかけられた時、これを断っています。

「わが国のことはわが国でやる。外国の援助は受けない」と。

「謝罪恭順…それしかないか」

慶喜は勝海舟らの意見を容れ、以下のようなお触れを出します。

「朝敵の汚名を被った以上、ひたすら天皇の裁きを待つほかは無い。そのほうらの憤慨はもっともである。しかし戦となると外国の干渉を招く。インドや中国の二の舞となる。日本は瓦解し、民は塗炭の苦しみにあえぐことになろう。私は天皇に対して二重に罪を犯すことになる。どうかわが意思を汲み、暴動を起こしてくれるな。軽挙に及ぶ者はわが家臣ではない」

2月12日、慶喜は江戸城を出て、徳川家菩提寺である上野寛永寺の塔頭・大慈院の一室に移り、謹慎生活に入ります。

慶喜の助命嘆願

慶喜が謹慎生活に入ると、前将軍夫人の静寛院宮(和宮)、上野の輪王寺宮、尾張の徳川慶勝、越前の松平春嶽らがしきりに新政府に働きかけ、徳川慶喜の助命嘆願をします。

岩倉具視は徳川慶喜の助命と徳川の家名存続には賛成でした。

「慶喜の誠意ある謝罪が見られるならば、認めて良い」

という意見でした。

しかし西郷隆盛は岩倉とはまったく違う意見でした。

「徳川慶喜を切腹まで追い込まなくては事は終わらない。静寛院宮とても敵の一味と成り果てたので、追討せねばならない。ここまで追い込んだのに寛大な処置に流れてはふたたび後悔することになる」

そんな書簡を大久保利通に送っています。大久保も、

「慶喜をこの世から引退させねばならぬ」

ということを書いています。

結局、西郷・大久保らの意見が通ります。

慶喜謹慎に先立つ2月3日、天皇親征の勅が発せられていました。同9日、有栖川宮熾仁(ありすがわのみや たるひと)親王が天皇の代理人として征東大総督に任じられます。

2月15日、有栖川宮熾仁親王は朝廷より錦の御旗と節刀を授けられ、京都を出発。東海道・東山道・北陸道の三手に分かれて江戸を目指します。


東征軍 進撃図 全図

参謀は西郷隆盛・広沢真臣(ひろさわ さねおみ)・林玖十郎(宇和島藩出身)、および公卿二人でした。薩・長・土の藩兵を中心に総勢およそ5万。

東征軍の進撃に際し、「都風流ぶし」が歌われました。長州藩士・品川弥二郎が作詞し、祇園の芸妓・中西君尾が作曲。祇園囃子をベースとした勇ましい曲調で、庶民の間にも広まりました。日本初の軍歌といわれます。

宮さま宮さま お馬の前の
びらびらするのハ なんじゃいな
トコトンヤレトコトンヤレナ
ありゃ朝敵征伐せよとの
錦の御はたじゃ しらないか
トコトンヤレトコトンヤレナ

東征軍、江戸に迫る

3月5日。有栖川宮熾仁親王の東海道軍が駿府城に入ります。


東征軍東海道軍 駿府へ

翌3月6日、参謀会議を開き、江戸城総攻撃を3月15日と決めました。3月12日、東海道先鋒隊が品川に到着。ここまで東海道軍は一戦もしませんでした。

一方、東山道軍は下諏訪から二手に分かれて、高崎方面の本隊、甲府方面の支隊で進みます。


東征軍東山道軍 進撃路

東山道軍支隊は3月6日、甲州勝沼で近藤勇率いる甲陽鎮撫隊(旧新撰組)200人と交戦。3月9日、下野梁田(やなだ)で幕府歩兵頭・古屋作左衛門(ふるや さくざえもん)率いる歩兵部隊1800人と交戦。いずれも撃退し、3月13日、江戸に到着しました。

北陸道軍は3月15日、越後高田に到着。信濃を経て、三軍の中ではもっとも遅い4月4日、江戸入りしました。


東征軍北陸道軍 進撃路

この間、東征軍は行く先々で民心の獲得につとめました。新政府に従えば今年の租税は半分にする。昨年の未納分も同様である。もうひどい政治に苦しめられなくてすむぞと。

「おお、そいつはいい」
「官軍さまさまだ」

民衆の多くは新政府軍に期待しました。新しい自由な時代が来ると。その期待は後日、多くが裏切られることになるのですが。

敗れた古屋作左衛門らはこの後会津へ逃れ、松平容保と会見。名を衝鋒隊(しょうほうたい)として、越後で新政府への抵抗を続けていきます。

近藤勇ら甲陽鎮撫隊は敗れた後、いったん江戸に帰り、下総流山に陣をうつし再起をはかりました。しかし4月3日、近藤勇は捕らえられ、4月25日、板橋で処刑されました。

次回「江戸城開城」に続きます。

新選組 結成篇・激闘編
http://sirdaizine.com/CD/MiburoInfo1.html

上巻「結成篇」は近藤勇・土方歳三・沖田総司らの少年時代から始まり、試衛館道場時代、そして浪士組募集に応じての上洛した壬生浪士組がやがて新選組となる中で、八月十八日の政変。初代局長芹沢鴨の暗殺といった事件を経て池田屋事に至るまでを語ります。

下巻「激闘編」は禁門の変から第一次・第二次長州征伐から大政奉還へと時代が大きく動く中、新選組内部では山南敬助の処刑、伊東甲子太郎一派との対立、鳥羽伏見の戦いと続き、新選組は江戸へ下り、甲州勝沼、下総流山の戦いと転戦するも、ついに近藤勇が板橋で捕らえられ、処刑されるまでを語ります。

解説:左大臣光永

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