新撰組 江戸へ

■解説音声を一括ダウンロード
■【古典・歴史】メールマガジン
■【古典・歴史】YOUTUBEチャンネル

新撰組、江戸へ

慶応4年(1868年)正月。

鳥羽伏見の戦いに新撰組は惨敗します。

最強をほこった新撰組も新政府軍の圧倒的な火力の前に、
なすすべもありませんでした。

◆音声が再生されます◆
http://roudoku-data.sakura.ne.jp/mailvoice/Isami05.mp3

敗れた新撰組は順動丸・富士山丸に分乗し、
江戸に向かいました。
150名の隊士のうち20数人の戦死者と行方不明者を出し、
残っているのは116名でした。

甲板にも船室にも、傷の手当ての間に合わない隊士たちが
ぐったりと身を横たえたり壁によりかかったりしていました。

その中に新撰組局長近藤勇・
同副長土方歳三の姿もありました。

近藤は右肩に傷を負っていました。

「なあトシよ、俺はガキの頃三国志が好きだったんだ。
親父が膝の上にこう俺を乗せてな、やあやあ我こそはって
身振り手振りまじえて、講談調で、語ってくれるのよ。
特に俺は関羽がすきでな、関羽のように国のために戦って…
最後は立派に大君に殉じてえって、子供ながら思ってたのさ。
へっ、多摩の農家の小倅が、腰に刀さして
まかりまちがって新撰組局長なんてことになっちまったのは、
案外そんなとこに根っこがあるのかもしれねえなあ。
しかし、実際の戦は講談のように勇ましくはいかねえよ。
いったい、どうしてこんなことになっちまったんだ。
どこでおかしくなっちまったのかなあ」

「近藤、いい加減にしろ。
新撰組はまだ負けてはいない。お前の悪い癖だ。
登り調子の時はいいが、逆境に弱すぎる。
新撰組はまだ負けてはいない」

そんなやり取りもありつつ…

1月12日順動丸は品川に入港。
68名の隊士たちが茶店「釜屋」に荷をおろします。

一方、負傷者を載せた富士山丸はいったん横浜へ向かい、
負傷者を横浜病院に預けた後、15日品川に入港します。

近藤勇は沖田総司とともに品川で降ります。

「総司。お前だいぶ悪いようだなあ」
「近藤さん、こんなの、どうってことないですよ。
心配しないでください」

沖田総司の肺結核は悪化していました。

透き通るような総司の笑顔を見ていると、かえって
近藤は胸をしめつけられるのでした。

近藤と沖田は治療のために神田和泉橋の医学所へ向かいます。
医学所には幕府典医・松本良順がつめていました。

旧幕府は新撰組の江戸駐屯所として鍛冶橋門内の
若年寄の屋敷を用意してくれます。

隊士たちはこの場で再起をはかることとなります。

戎器、砲にあらざれば不可

1月16日、佐倉藩士依田七郎が近藤勇・土方歳三両名を
江戸城に召しだし面談します。

「それで、鳥羽伏見の戦いは、どうであったのか」

「私は参加しておりませんので、こちらの土方から申し上げます」

「うむ。土方とやら、申してみよ」

土方が顔を上げ、口を開きます。

「畏れながれもうしあげます。
もはや銃と大砲がなければ戦になりませぬ。
剣と槍で戦は、不可能です」

「なっ…!」

土方の言葉には、実際に戦闘に参加したからこその
重みがありました。

甲陽鎮撫隊

この頃、将軍徳川慶喜は陸軍総裁勝海舟に事態の収拾をまかせ、
上野寛永寺に謹慎していました。
そして新撰組は慶喜の警護にあたっていました。

2月28日、上野寛永寺で将軍徳川慶喜の警護にあたっていた
新撰組のもとに甲州に出撃せよと正式な指令が下ります。

近藤勇がぜひ、甲州へは新撰組をあたらせてくださいと
勝海舟に願い出たことが、功を奏したのでした。
幕府からは軍資金三千両、大砲八門、元込め銃三百挺が
下されます。

「ようやく、鳥羽伏見の雪辱が晴らせる」

いきり立つ近藤。

一方土方は鳥羽伏見の教訓に基づき、
隊士に新政府軍が着用したのと同じ
西洋式のズボンをはかせ、軍備も西洋化し、土方自身も
西洋式のコートを着用して髪も西洋風に切りました。

2月30日、一行は鍛冶橋の屯所を出発します。

近藤勇は高らかに宣言します。

「きけい。今や我らは新撰組ではない。
これより甲陽鎮撫隊とあらためる」

近藤は大名籠に乗りこみ、
土方は馬にまたがります。
近藤は大久保剛、土方は内藤隼人と名もあらためました。

一行の数、はじめ80人。
途中、内藤新宿で矢島内記の率いる100人が合流し
甲州街道を西へ向かいます。

「とにかく、甲府城さえ手に入れてしまえば
こっちのものだ。なあ歳」

「さあ、そううまくいくかな」

勝沼の戦

そううまくいきませんでした。

新政府軍はすでに甲府城に入っていました。

その知らせを受けた近藤は、援軍要請のため
土方を早籠で江戸へ走らせる一方、ここで一歩でも
退却しようものなら士気が下がると、強引に進軍します。

3月4日夕方、鶴瀬宿を出発し勝沼宿に到着。
鶴瀬、勝沼両宿に篝火をたかせます。

それを見た新政府軍は、

「おお!敵があんなにも集まっている」

と、兵を増強し、二千人にもふくれあがります。

翌3月5日午前8時。

近藤は鶴瀬と勝沼の間の観音坂に
大砲を設置し、原田佐之助にこれを守らせます。

間道がいくつもあるのでそれぞれに5名ずつ配置して
斉藤一の隊がこれを守備し、

永倉新八の隊は川を越えて山の上から敵の襲撃に備えます。

ほどなく、新政府軍が勝沼の関門を破り、
観音坂へ押し寄せてきました。

ワァー、ワァー

「きたぞっ」
「打ち方はじめ」

ドーーン!!

一発打つと、新政府軍はバタバタと倒れました。そこへ

「てーーっ」

ドーーン!!

二発目を発射すると、新政府軍はバタバタとまた多くが倒れます。
しかし、新政府軍は数が多くキリがありません。

新政府軍は川を越えて長倉新八が
守護する山のほうに押し寄せてきます。

ワァー、ワァー

この時、地元の農民が数名、弁当持参で
戦の見物に来ていました。非戦闘員には
攻撃しないと、安心しきっているんですね。

「なっ…!のんびりしやがって。昔の関ヶ原やなんかと
勘違いしてんじゃねえぞ。邪魔だ。どけ」

ドーーン!!

農民に当たらないように空に向けて発射すると、
う、うへえと皆逃げていきました。
そして、ふもとの民家に火をかけます。

ゴォーー、ゴォーー

燃え広がる炎。

しかし、

ワァー、ワァー

新政府軍は数にまかせて、炎の中押し寄せてきます。
敵は大勢。こちらは小勢。しかも長倉新八率いる猟師たちは
そもそも戦の心得がなく、混乱して味方を打つようになりました。

「やむをえん…退け、退けーーっ」

わずか二時間で近藤は撤退を命じるほかなくなりました。

≫続き「近藤勇の最期」

発売中です

見て・聴いて・わかる。日本の歴史 飛鳥・奈良

日本の歴史のうち飛鳥時代から奈良時代までを、楽しく、わかりやすく語りました。大化の改新、壬申の乱、平城京遷都、大仏 建立…。「昔学校で習ったけど、なんとなくぼんやりしている」「聞き覚えはあるけど」という方も多いのではないでしょうか?

この音声を聴けば、昔教科書で習ったバラバラの断片としての知識が、スーッと一本の物語としてつながります。

学校で習った知識の整理に。生涯学習の一環として。または奈良や近畿地方の旅のきっかけとしても。「昔、琵琶湖でこんな戦 いがあったのか。今度行ってみよう」という具合にもお楽しみください。

聖徳太子が、天智天皇が、中臣鎌足が、吉備真備が、持統天皇が、聖武天皇が、行基が、鑑真が、道鏡が、活き活きとあなたに 語りかけ、躍動し、活躍します。目の前に、まさに歴史の場面を見ているような面白さをご堪能ください。リンク先で無料のサン プル音声もご用意しています。ぜひ聴きにいらしてください。

≫詳しくはこちら

本日も左大臣光永がお話しました。
ありがとうございます。ありがとうございました。

解説:左大臣光永

■解説音声を一括ダウンロードする
■【古典・歴史】メールマガジン
【古典・歴史】YOUTUBEチャンネル