吉田松陰の下田踏海事件

プチャーチン来航

ペリーが浦賀を去ってから1か月後の7月18日、
ロシアのプチャーチン艦隊が長崎を訪れるという話が届き、
松陰は弟子の金子重之輔と共に密航計画を立てて長崎に駆け付けます。

しかし予定より早くプチャーチン艦隊は長崎を引き上げます。
ロシアとトルコの間で戦われていたクリミア戦争にイギリスが参戦し、
ロシア艦隊を攻撃したという情報が入ったためです。

松陰と金子が長崎についた時はもうプチャーチン艦隊は
出発した後でした。

「まだだ。まだ来年がある」

松陰と金子重之輔は来年のペリー再来日に期待をかけます。

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日米和親条約

嘉永7年(1854)1月16日再度ペリー艦隊が江戸湾に入港し、
同年3月3日、日本とアメリカの間に日米和親条約が結ばれます。

下田と函館の開港、下田に領事館を置くこと、
アメリカを最恵国待遇とすることなどが定められます。

ペリーは条約締結のため、横浜にいました。

時に吉田松陰25歳。

横浜にて黒船への接触をはかる

吉田松陰と金子重之輔はペリー艦隊偵察のため
保土ヶ谷に宿を取り、翌日、横浜港へ出かけました。

港にはペリーの旗艦ポーハタン号がでかでかと停泊しています。

「なんとか黒船に近づきたい。土地の漁師に舟を借りられないか」

しかし、誰もそんな無茶に付き合おうとする者は
ありませんでした。

松陰の手紙

そうこうしている内にペリー艦隊は横浜から伊豆の下田に移り、
松陰と金子も陸路、下田に向かいます。

松陰と金子は下田奉行所の近くの宿の二階に泊まり込み、
毎日ペリー艦隊の動きを探りました。

金子が言います。

「先生、下田の町中を夷人が歩き回っています」

「うむ。先ごろの条約で下田は開港されたからね。
いっぱい入ってきてるよ」

「どうでしょう。夷人に直接文を渡してみては」

「やるかね金子くん」

松陰と金子は郊外の路上を歩いている外国人をみつけ、
背後から近寄り、軽く話しかけてから
ポケットにぐっと文をねじこみ、指を口の前にあてて「しっ」の
しるしをつくって、その場を立ち去りました。

それは松陰の渡航にかける熱い思いをつづった文でした。
しかしまずいことに、漢文で書かれていました。
松陰は通訳が英訳してペリーに伝えてくれるだろうと期待しましたが、
そこまでやってくれる者はありませんでした。

決行

「金子くん、こうなったら直接、
黒船に乗りつけるしか無い」

1854年(嘉永7年)3月27日夜。

舟を貸してくれる漁師は無かったので、舟を盗み出します。
二人で舟に乗り込み、沖に停泊しているペリー旗艦ポーハタン号に
向けて漕ぎ出したところ、

舟の櫓をとめるための杭が壊れていることに気づきます。

「先生、これでは櫓を止められません」

「金子くん、諦めてはだめだ。櫓をふんどしでくくるのだ」

松陰は言ってるそばからふんどしをはずし
櫓を船端に括り付け、ぐいぐい漕ぎ出しますが、
ふんどしでは、すぐにゆるむので、今度は帯をくくりつけて、
なんとか舟は進んでいきました。

汀からもっとも近いミシシッピー号まで
たどりつくと、

「おーい!おーい!昼間の二人だ。乗せてくれー」

はるか上の甲板に向けて怒鳴ります。

「ん?なんだあの連中は」

ミシシッピー号の士官が見下ろすと、はるか下の海上で
小さい舟に乗った日本人らしき者が二人、ワアワア言ってます。
しかもふんどしも帯もはずし、異様な感じです。

すぐに縄ばしごが下され松陰と金子はミシシッピー号の甲板に
引き上げられます。しかし漢文での意思疎通は通じず、
「旗艦ポーハタン号には漢文のわかる通訳がいるから
そっちへ行け」

とのことでした。

ポーハタン号へ

松陰と金子は再度小舟に乗り込み、
根性で旗艦ポーハタン号を目指し、ふなべりに近づきますが、
気づいたポーハタン号の士官たちがワアワア騒ぎ始めます。

「あっちへ行け!」
「それ以上寄るとただではすまんぞ!」

言葉はわからないながら、
そういうことを言っているのだとわかります。

そのうちにポーハタン号の士官たちがふなべりの階段を降りてきて
松陰の乗る小舟を棒で突き放そうとしますが、
突き放すと舟はすり寄り、突き放すとまたすり寄り、
金子は「ええい」松陰も「やっ」とポーハタン号のふなべりの階段に飛び移ります。

乗ってきた舟は飛び移った反動で流されていき、
これでは帰ることもできず、
ポーハタン号の士官たちもどうやら害意のある者では
ないらしいということで、二人は甲板まで案内されました。

ペリーの拒絶

「遭難したのか」

「そうじゃないんだ。筆談がしたい」

通訳官ウィリアムズとの間で漢文による筆談となります。

「私たちは世界が見たい。アメリカに連れて行ってくれ」
「君たちはあの手紙をくれた日本人か」
「そうだ」

ウィリアムズがこれをペリーに取り次ぎますが、
先日やっと日米の間に和親条約が結ばれた時期。
個人的には連れていってやりたいが、
ここで日本の法を犯すのは得策で無いとペリーは考えました。

ウィリアムズは申し訳なさそうに、「早く帰れ」と
漢文で書いて、松陰らに示します。

「しかし、私たちの舟は流されてしまったのです」
「ならば当方のボートでお送りする」

こうして松陰と金子重之輔はアメリカのボートに乗せられて、
下級士官がオールを漕いで、磯まで戻されたという
「下田踏海事件」の顛末です。

アメリカ側の公式記録に記されています。

「この事件は、日本の厳重な法律を破り、
知識を得るために命を賭けた二人の教養ある日本人の烈しい知識欲を示すもので、
興味深いことであった。日本人は疑いなく研究好きな国民で、
彼らの道徳的、知的能力を増大させる機会は、これを喜んで迎えるのが常である。
この不幸な二人の行動は、日本人の特質より出たものであったと信じる」

自首

磯に戻された松陰と金子はくたくたにくたびれて、
へたれこみながらも、

「金子くん。我々は国禁を犯したのだ。この上はいさぎよく自首しよう」
「はあ…はあ…はあ…はあ?」

松陰の考えでは、信念に基づいての行動なので、
どんな結果でも毅然として受け入れるべきだ。逃げ隠れするのは見苦しいという
美学のようなものがあったようです。

こうして松陰と金子は自首し、下田奉行所に捕えられます。

数日後、アメリカの士官が下田の町を歩いていると、
牢獄に入れられさらし者にされている松陰と金子の姿を見つけました。

「おおぉ!!」

士官がダッと駆け寄ると松陰はニコリと笑い、
板切れに漢文を書いて差し出しました。

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英雄一度その目的を失えば、その行為は、
悪漢、盗賊の行為と考えられる。
吾等は衆人の目前において捕らえられ、
縛(いまし)められて、永く拘禁されている。
村の長老、役頭等の吾等を遇することや侮辱的にして、
その圧制は実にはげしい。

されど吾等自ら顧みて内に一の疚(やま)しきところなき故、
今や実に英雄果たして英雄たるや否やを試すべき時である。

六十余州を踏破するの自由だけでは吾等の志を満足させることができない故、
吾等は五大州の周遊を企図した。これ吾等が多年の心願であった。

吾等が企図は突如としてつまずき、狭苦しい檻の中に入れられ、
飲食、休息、座臥、睡眠も困難である。吾等如何にしてこの中より
脱出し得べきか。泣かんか、愚人の如く、笑わんか、悪漢の如し。
ああ吾等沈黙し得るのみ。
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次回「ハリス来日」に続きます。

解説:左大臣光永