遣隋使

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遣隋使は7世紀初頭、聖徳太子が摂政の間に隋(581-618)へ数回派遣された使節です。600年(推古天皇8年)から610年(推古天皇18年)まで6回実施されたといいますが、回数には諸説あります。

遣隋使 コース
【遣隋使 コース】

第一回遣隋使

607年の小野妹子が教科書では有名ですが、それ以前の600年にも遣隋使が派遣されている記録が『隋書』東夷伝倭国条にあります。

『隋書』には、隋の初代皇帝文帝が倭国の風習を使者に尋ね「道理にあわない風習だ。きちんと教えてやらねば」と呆れられた記事があります。

しかしこの第一回遣隋使の記録は、『日本書紀』など日本側の記録には一切記されておらず史実性には疑いが持たれています。なぜ記されていないのか。私的な使いにすぎなかったという説や、隋の高圧的な態度を無視したなど諸説ありますが、はっきりしたことはわかりません。

しかしこの第一回遣隋使によって倭国の社会制度がまだまだ国際社会で通用しないことが明らかになり、憲法十七条、冠位十二階などの制定につながっていきます。

小野妹子と裴世清

607年の第二回(?)遣隋使には大礼(だいらい)小野妹子(おののいもこ)が選ばれます。小野妹子は経歴も出自も謎の人物で、607年の時点で突然歴史に登場します。そして遣隋使から戻った後どんな生涯を過ごしたかもわかっていません。

平安時代初期の文化人で百人一首にも歌が採られている小野篁は、小野妹子の子孫だと言われています。

仏教を学ぶことを目的に僧数十人が同行しますが、この時提出した推古天皇の国書があまりに有名です。

日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙無きや

太陽が昇る所の天子が、文書を、太陽が没する所の天子に送ります。調子はどうですか。

隋の煬帝は「蛮夷の書、無礼なる者有り、復たもって聞する勿れ」野蛮人の書だ、無礼な者だ、二度とこんなものを見せるなと言って怒りました。

確かに一見して無礼な書状です。日本を「太陽の上る所」と言い、隋を「太陽の没する所」と言っていることは、とても無礼に思えます。しかしこれは単に「東」と「西」をあらわす慣用句であり煬帝はここに怒ったのではありませんでした。

煬帝が怒ったのは「天子」という言葉に対してです。野蛮人の分際で、わが国と対等に天子をいただくなど、何様のつもりだというわけです。

国書を送った聖徳太子は、不注意から煬帝を怒らせてしまったのでしょうか?おそらく、そうではないでしょう。外交上の計算があったものと思われます。

小野妹子を遣隋使として派遣するにあたって、日本は隋と対等な関係を結びたいという強い願いがありました。また、600年の第一回遣隋使の失敗から、十七条憲法や冠位十二階といった制度を整えてきた自負もありました。

隋と対等な関係を結ぶ。そのためには倭国が隋と同じく、「天子」をいただく対等な国家であると、たとえ形式上だけでも認めさせる必要がありました。どうしても「天子」という言葉を認めさせる必要がありました。

隋の煬帝は聖徳太子の書状に怒り、使者を斬り捨てることもできましたが、結果としてそれをしませんでした。隋にも切羽つまった外交上の問題があったからです。

この頃隋は高句麗にたびたび出兵していましたが、そのたびに撃退されていました。この上倭国が高句麗と結ぶことにでもなったら大変なことになります。隋はそのために、倭国と敵対することができませんでした。

おそらく聖徳太子は隋が直面している切羽つまった立場を計算に入れた上で「今ならこの書状を受け取らざるを得ないだろう」と勝負をかけたのではないでしょうか。

翌608年小野妹子が帰国するにあたり、隋から答礼使として裴世清(はいせいせい)が同行することになりました。

これで隋は倭国を臣下ではなく対等の「国家」と認めた形になりました。もっとも裴世清は下級の役人にすぎず、倭国を認めたといっても形式的なことでしたが、対等外交へ一歩踏み出すことができたのでした。

つづき 冠位十二階と憲法十七条

解説:左大臣光永

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