川中島合戦(一)上杉謙信と武田信玄

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こんにちは。左大臣光永です。

小学生が、少年ジャンプを立ち読みしてたんですよ。

近所のコンビニで。

「おお!」

と思いました。

私、池袋界隈に20年以上住んでますが、コンビニで小学生が『少年ジャンプ』立ち読みしてる姿は滅多に見ないですね。立ち読みしてるのは若いサラリーマンばかりで。「ちゃんと子供にも少年ジャンプは読まれてるんだ」と安心する一方…

20年見かけないんだから、やっぱり少年ジャンプは子供に読まれてないんだと思います。

さて本日から5回にわたって、川中島合戦についてお話しします。

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川中島合戦は、武田信玄と上杉謙信との間で12年間、5回にわたって戦われた戦いです。中にも永禄四年(1561)の第四次川中島合戦は、その規模の大きさと、信玄・謙信双方の用兵の見事であったことで、軍記物にも多く描かれ、後世の語り草となっています。


村上義清 長尾景虎を頼る

天文22年(1553年)。

北信濃の豪族・村上義清が甲斐の武田信玄に領土を追われ、
越後春日山城に逃げ込みます。村上義清は、若き越後国守長尾景虎に助けを求めたのでした。


「どうか長尾殿、われらと共に武田信玄と戦ってくだされ。
われら信玄に信濃を追われ、無念でござります。

(ううむ…我を頼ってきた者を見捨てるわけにはゆかぬ。
それに、事は信濃一国の問題では無い。
信玄が信濃全域を手に入れれば、次にはこの越後まで
侵攻してくるやもしれぬ。ここで信玄を食い止めねば
越後にとっても先は無い)

「わかりました村上殿。共に手を取りあい、
武田信玄を討ちましょう」

「おお!長尾殿」

上杉謙信 その人物

長尾景虎。後の上杉謙信。この年24歳です。

越後守護代長尾為景の末っ子として生まれ、
一時は僧になるべく寺に預けられていましたが、
兄晴景に呼び戻されて還俗します。
その後、兄春景との家督争いを制して長尾家の家督を継いでいました。

後には関東管領上杉憲政から上杉家の家督と関東管領職を
譲り受け、上杉政虎と名乗ることになります。

出家して上杉謙信となるのはもっと後の話です。

上杉謙信は、ほかの戦国武将のように、利害では動きませんでした。ただ天皇と将軍を尊敬し、願うことは越後の領民が平和に暮らしていけることでした。

生涯行った戦は、すべて今回の村上義清の場合にように、他人を助ける形で、義のために、正義のために始めています。

領土に対する野心は薄く、武田信玄が一度敵地を占領するとしっかりと根を下ろして土地の運営をするのに対して長尾景虎こと上杉謙信は戦が終わるとあっさりと引き上げることがほとんどでした。

また私生活においても淡泊でした。生涯妻をめとらず、独り身を通しました。

作戦を練る時は独り毘沙門堂に閉じこもって瞑想にふけりました。

一方の武田信玄は、何を決めるにも必ず家臣に議論させた上で皆で決めたというので対照的です。

それでいて謙信の戦の腕は天才的でした。なんと生涯一度も負け戦がありません。自分を戦の神毘沙門天の化身と言い、戦場では琵琶をかきならし詩を吟じ、酒をあおりながら指揮を執ったといわれます。何とも神がかった、天才的な感じがしますね。

甲斐の状況

一方、武田信玄こと武田晴信は、清和源氏である新羅三郎義光の末裔であり、源平合戦で活躍した武田信義の子孫たる武田信虎の嫡男として甲斐に生まれます。名を武田晴信といいました。

21歳の時父信虎を駿河に追放し、武田家の当主となります。そして当主になって翌年の天文11年(1542年)より、父信虎の代からの課題であった信濃攻略に乗り出します。

甲斐は資源が少なく、作地面積が狭い国です。

その上、四方の国境から常に敵におびやかされていました。また、甲斐には海が無く、人の生活に不可欠な塩や海産物の確保に難がありました。この心細い甲斐の国を強くするには、外に攻めていくしかありません。


そこで南…東海道側を見ると、相模には北条氏康、駿河には今川義元という大きな勢力があります。これを敵に回すのは現実的でない。

対して西の信濃は、信濃全域に勢力を持つような大勢力がなく、小勢力が散らばっている状態でした。その上信濃は資源が多く、豊かな地です。

武田信玄こと武田晴信は、相模の北条氏康、駿河の今川義元と軍事同盟を結び、後顧の憂いを断ってから、信濃の攻略を進めていきます。

武田信玄の人物

武田信玄の行いを見ると、目的のためには手段を選ばず、という言葉が、ぴったりです。父信虎を追放し、後には息子義信を自害に追いやり、忠臣飯富(おぶ)虎政を亡ぼし…味方や身内に対しても容赦無い行いが目立ちます。

しかし一方で、

「人は城、人は石垣、人は堀」という言葉にあらわれているように、信玄は人材の活用に、熱心でした。

たとえば農民出身の高坂弾正(昌信)。たとえば片目片足で異様な風貌をしていたという軍師の山本勘助。信玄は、出身や容貌にかかわらず、こいつは使えると見ると、貪欲に人材を採用しました。

兵法書『孫子』を愛読しました。信玄の戦いぶりは『孫子』にのっとった、きわめて慎重で合理的なものでした。

絶対に勝てる状況になるまで、けして軍勢を動かさない、徹底した合理主義者でした。
また目的のためなら身内や譜代の家臣までも陥れる非情さも、『孫子』の教えから来ているのかもしれません。有名な「風林火山」の旗も、『孫子』の言葉に基づくものです。

第一次川中島合戦まで

信濃に侵攻した武田信玄は11年かけて、信濃全域を制圧します。諏訪頼重をはじめとして、高遠頼継(たかとうよりつぐ)、小笠原長時ら豪族たちを屈服させ、城を落としていきます。

そして北信濃にこの人ありと言われた村上義清には二度の敗戦を喫するも、調略によって村上義清の本拠地・葛尾城(かつらおじょう)をほぼ無傷で落とし、ほぼ信濃全域を手に入れました。

残るは南信濃下伊那(しもいな)と、北信濃・川中島のみとなりました。

ここに至り、北信濃を追われた村上義清が、越後の長尾景虎に助けを求め、駆け込んだのです。

「わかりました村上殿。共に手を取りあい、
武田信玄を討ちましょう」

「おお!長尾殿」

上杉謙信こと長尾景虎は、村上義清ら信玄に追われた北信濃の諸勢力を引き連れて北国街道を南下。川中島に至ります。しかし信玄と謙信。最初の戦いは小競り合いと様子見程度のもので、決定的な衝突はありませんでした。

天文22年(1553年)第一次川中島合戦です。以後12年間、5回にわたって武田信玄と上杉謙信との間で、川中島をめぐって戦いが繰り広げられることとなります。


中でも一番戦いが激しかったのが、永禄4年(1561年)第一次川中島合戦から8年後に行われた第四次川中島合戦です。

第四次川中島合戦前の状況

永禄4年(1561年)。この年、武田信玄は信濃のほぼ全域を手に入れ、さらに将軍足利義輝より信濃守護に任じられていました。これによって、信玄の信濃支配は将軍家からも認められた形となります。

一方の上杉謙信は、関東管領上杉憲政から関東管領職と上杉の家督を譲り受け、その名も上杉政虎と改めていました。

関東管領とは室町幕府の役職で、東国を統治する「鎌倉府」の長官・鎌倉公方を補佐する役職です。室町時代中期以降は、代々山内上杉家が世襲していました。

かつては大変な権威だったのですが、この頃関東管領上杉家は相模の北条氏康に侵略され、行き場を失っていました。行き場を失った上杉憲政は、越後の長尾景虎を頼ってきたわけです。


長尾景虎は亡命してきた上杉憲政を、客人として厚くもてなしました。そのため上杉憲政は長尾景虎の人柄にぞっこんほれ込みます。

「敗残の将である私を、ここまでもてなしてくださるとは…
景虎殿、この戦国の世に、そなたのような人材は、
実に得難い。どうか、上杉の家名と、
関東管領の地位を、譲り受けてくれ」

「な…なにをおっしゃいますか」

「いや、思いつきで言っているのではない。
これはずっと考えていたことじゃ。
景虎殿。そなたこそ、関東に秩序をもたらしてくれる
御仁であると」

結局、長尾景虎は上杉憲政の申し出を受け、
関東管領に就任するとともに、上杉の家督を相続。

以後、上杉政虎と名乗ります。

そして北条氏康に苦しめられている人々からの
要請を受け、上杉政虎は関東に出兵し、小田原城を包囲しました。


知らせを受けた武田信玄は激怒します。


躑躅ヶ崎館
躑躅ヶ崎館

躑躅ヶ崎館
躑躅ヶ崎館

「長尾景虎が上杉の家督をついだ?
関東管領に就任しただと?認めん。
わしは、そんなことは、認めんぞーーーっ」

川中島へ

永禄4年(1561年)5月、信玄は同盟関係にあった北条氏康を支援するため、信濃に進撃し、越後との国境近い割ケ岳(わりがたけ)城を攻撃。これを攻め落とします。

「ふふふ政虎よ。これでも
関東で遊んでいられるかな」

越後の国境が信玄によって脅かされたという知らせは、
すぐに関東にいる上杉政虎のもとに届きます。
このままでは信玄が越後まで侵攻してくる!

「おのれ信玄。そうはいくか!」

上杉政虎は関東を後にし、
春日山城へ帰還すると、再度軍勢を整え、
8月14日、13000名を率いて川中島へ向けて出撃します。

「今度こそは決着をつける!」

思えば天文22年(1553年)にはじめて信玄と遭遇してから8年。
その間、三度この川中島を隔てて向かい合うも、
両雄の間に直接対決はなく、にらみ合い程度に終わりました。
しかし、これ以上信玄を野放しにすると、
信濃ばかりか越後まで侵攻してくる。
ここで止めねば、後がありませんでした。

8月15日。上杉政虎は善光寺に着陣します。


次回「妻女山」に続きます。お楽しみに。

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解説:左大臣光永

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