源義親追討事件

上総平氏から伊勢平氏へ

平氏の血筋をさかのぼると、平安京遷都を行った桓武天皇に行き着きます。桓武天皇の皇子葛原親王の孫の高望王が臣籍に降下して平の姓を名乗り、上総国(房総半島)に下りました。これが世に言う葛原系桓武平氏です。一般に「平氏」という時は、この葛原系桓武を指します。

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平高望以降、平氏は関東に勢力を伸ばします。上総(千葉県中部)に拠点を置いたので「上総平氏」とよばれることもあります。

政府に反乱を起こした平将門は平高望の孫にあたります。そして平高望から数えて4代目の平維衡の代に、どうしたわけか平氏は伊勢に移ってきます。以後、伊勢を中心に平氏は勢いを伸ばし、「伊勢平氏」と呼ばれます。

平正盛

維衡から数えて3代目の子孫にあたる平正盛は、白河上皇に重く用いられました。検非違使として上皇の熊野参詣の警護などをつとめました。またこの頃、比叡山や興福寺の悪僧が都に乱入し「強訴」という無茶な要求をつきつけた時に、鎮圧を命じられていました。

とはいえ、源氏の源頼義・義家父子が前九年の役・後三年の役で華々しい功績を立てたのに比べると、彼ら伊勢平氏の働きは、いかにも地味でした。

正盛は、隠岐守を努めましたが、海の向うの隠岐では、産物にもとぼしく、出世の見込みもないです。そこで正盛は考えます。

「今は外に手をのばすより、足元を固めるべき時期」

そう言って正盛は、父祖伝来の伊勢・伊賀両国の開墾に勢を出します。

その一方で正盛は、白河上皇に点数を稼ぐことも忘れませんでした。

1097年(永長二年)。正盛は伊賀国の田畑や屋敷二十町あまりを六条院に寄進します。六条院とは、亡くなった白河上皇第一皇女・郁芳門院テイ子の屋敷跡に建てられた仏堂です。

白河上皇は第一皇女・郁芳門院テイ子のことをいたく愛しておられました。ところが郁芳門院テイ子は21歳の若さで亡くなってしまいます。

「ああ…お前、どうして…」

白河上皇はつくづく涙にくれ、周囲が止めるのも聞かず、御出家なさいました。1096年のことでした。ここからは白河法皇となります。

白河法皇は内親王の菩提を弔うため内親王の御所を改造し、1097年(永長二年)落成しました。これが六条院です。正盛が伊賀の領地を寄進したのは六条院が落成した翌年のことでした。

正盛は白河上皇がいかに内親王の崩御をいたんで落胆しているか。その落胆ぶりをきいていたのでしょう。あるいは人づてに。あるいは直接。なので、内親王の思い出のつまった六条院に、土地を寄進したのです。

「正盛…ありがたいことよ」

白河上皇はつくづく感じ入られ、以後正盛を目にかけるようになります。

翌1098年正月の除目では若狭守に任じられます。海のむこうの隠岐島に比べれば、若狭は穀物物資の豊富な地です。

「ようやくワシにも運がめぐってきた。今まで長かった」

正盛は飛び上がるばかりの喜びだったことでしょう。その後は因幡国など各地の受領になりながら、わが身は京都にあって、白河上皇の北面の武士として働きました。

白河上皇は勢力が大きくなりすぎた源義家にかわって、あらたな武士を探していました。白河上皇としては源氏にせよ、平氏にせよ、武士が力を持ちすぎていずれは院や朝廷をもしのぐ存在になることを何よりも恐れていました。

そのため長年にわたって源氏がのびれば平氏に討たせ平氏がのびれば源氏に討たせとバランスを取っていった歴史があります。その意味では、源義家は勢力がのびすぎでした。ここらで平氏に乗り換える必要がある。白河上皇としては、そのような思惑でした。

しかし、平正盛を世に印象づけるには、いまいち華やかさに欠けていました。源義頼・義家が前九年合戦・後三年合戦で武勲を立てたことに比べて、正盛にはたいした武勲もなく、いかにも地味でした。

「なんとか正盛を引き立ててやりたいが…」

白河上皇がお悩みになっていた矢先に、その事件は起こりました。

源義親追討事件

源義親は源義家の第二子です。長男は早くに死んだため、義親が長男として育てられました。武勇の点では父の勢いを継いだものの、風流を解する心はまるでなく、分別に欠けた乱暴者でした。

対馬守として在任中に人民を苦しめ非道を働いたため当時の太宰第弐大江匡房が、これを朝廷に訴えます。

「なに!私の息子が…これは、なんということ」

武勇の誉高い八幡太郎義家の息子は、出来が悪かったのです。

武勇という点では父の血を引いているものの、単なる乱暴者で、父と違い、風流心などカケラもありませんでした。

とうとう捕縛され、隠岐島に流されることとなりました。

「隠岐とはどれほど遠い所か。しばらく帰れなくなるかもしれんから、
その前に、もう一暴れしていくか」

そういう気持ちだったかどうか、わかりませんが、隠岐へ向かう途中、義親は出雲国で乱暴を働き、国司を殺害し、物資や食糧を強奪します。

「ふはははは。焼き払え。焼き払え」

「ああ…なんという乱暴者だ。父の八幡太郎さまとは、
えらい違いだ」

出雲の役人たちも、人民も、源義親の横暴に困り果ててしまいます。

白河法皇は、平正盛を召し出し、
源義親の追討を命じられました。

これは、いまいち働きのなかった平正盛に華々しい活躍の機会を与え、そのデビューを印象づけようという白河法皇のお考えがあったものと思われます。

1107年(嘉承二年)の暮れ。平正盛は京都の源義親の館にまず鏑矢二本を放ち、出雲へ向けて出発します。

現地での正盛の戦いぶりについては、何ら記録が残っていません。

1か月後の天仁元年正月。追討使平正盛より、悪人源義親を郎従4人とともに討ち取ったという知らせが京都に届きます。

「うむ。よくやった。源義親追討の功績により、
正盛を但馬守に任ずる」

「法皇さま、いまだ正盛は上洛していません。
上洛前に、恩賞を与えるのは、いささか異例ではございませぬか」

「そんなことはない。正盛はよくやっくれた」

正月29日。正盛一行が京都に凱旋します。

その凱旋のさまは、前九年合戦における
源頼義・義家父子の凱旋の様子を模した、
すこぶる華やかなものでした。

先頭を義親の首を掲げた家人五人。
その左右に太刀を担いだ足軽四五十人。
その後ろに追討使平正盛。
その後ろに続く馬に降人一人を乗せ、
最後に馬に乗った郎党二百人あまりが
続きました。華やかな行列でした。

「あれが平正盛さまか…華やかだなあ」
「誉れ高いことよねえ」
「まるで、八幡太郎義家さまの再来じゃ」

京都の人々は久々の晴れの凱旋式に、
熱狂しました。

逆賊源義親以下、郎従の首が検非違使に渡された後、
獄門にさらされました。

しかし、今回の源義親追討事件について、疑いを懐く者も多くありました。

「八百長ではないか」と。

今回の反乱鎮圧は、白河法親が
平正盛を世に印象づけるため、晴れの舞台を与えたもの。
そもそも最初から仕組まれたことではないのか?

まあ捏造まで行かずとも、義親はまだ死んでいないのではないかと。

源義親の亡霊

「義親は死んでいないのではないか?」

その疑惑を裏付けるように、その後何度も源義親と名乗る者が各地に現れています。

源義親追討事件から9年後の1117年(永久5年)越後国で源義親を名乗る法師があらわれました。またその翌年、下総守源仲正(頼政の父)が、源義親を捕えて上洛しました。白河上皇・鳥羽上皇の父子がこれを検分しますが、本物ではないということでした。

さらに六年後の1129年(大治4年)、源義親を名乗る男が坂東から上洛し、前関白藤原忠実の館にかくまわれているという情報が入り、義親の元の妻や家人たちに確かめさせた所、本物ではなさそうだということでした。

翌年にはまた別の義親が近江の大津であらわれ、上洛し、忠実の館にかくまわれていた義親と源光信の館の門前で、合戦し、郎党六人とともに討死します。源光信は、わが館の前で合戦するとは何事だと怒って勝利したほうの義親を襲撃し、郎従十余人ともども、討ち取りました。

このように、源義親追討事件から実に20年以上経ってなお、源義親の名は世に不安を与え続けていたのです。

『平家物語』冒頭には

承平の将門、天慶の純友、康和の義親、平治の信頼、此等は奢れる心もたけき事も、皆とりどりにこそありしかども

と、平将門藤原純友藤原信頼と並び、時の権力にそむいた逆臣の礼として名が挙がっています。

つづき「平忠盛の昇殿

解説:左大臣光永

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