刀伊の入寇

1019年(寛仁2年)3月27日。

九州対馬沖に、突如、謎の船団五十艘あまりが、あらわれました。

「なんだありゃ?」
「見たことも無い形だなァ」

船は岸に近づくと、見る間に数千名の荒く者たちが船から降り立ちます。その誰もが、今まで見たことも無い、異様な風貌をしていました。そしてウッヒョーーー、ヒッヒャアーーーと叫び声を上げ、大長刀をふるって海岸に駆け上がってきました。

賊は髪を振り乱し、目を血走らせて、次々と島民を惨殺し、村々に火をつけていきます。

刀伊の入寇
刀伊の入寇

スポンサーリンク

「ああ…平和だった対馬が、なんてことに!
いったい、何者なんだ!」

「とにかく、逃げましょう!」

島の長官であった対馬守某遠晴(姓は不明)は命からがら島を抜け出し、大宰府に到ります。

賊は続いて壱岐を襲撃しました。

「ギャッハハハハーーフォーーーーッホッヘッヒャヒヒャハーーー」

原始の叫び声とともに武器を振りかざし、島民たちを切り殺し、刺し殺し、子供・老人も、手当たりしだいに殺し、女を犯し、返り血で真っ赤になりながら大喜びで髪を振り乱しヨダレを垂れ流し、村に次々と火をつけ、食料をガツガツとむさぼり食うのでした。

平和だった島は、一瞬にして地獄と化しました。

刀伊の入寇
刀伊の入寇

「おのれ蛮族ども…この島はわしが守る!」

壱岐守藤原理忠(ふじわらのまさただ)は147名の兵を率いて賊徒の群れにあたりますが、敵は3000の大軍である上に、理性の通用しない、ケダモノの群れであり、まったく歯が立ちませんでした。

敵の狂気めいた勢いに藤原理忠率いる軍勢は震え上がり、勢いをそがれ、たちまち殲滅されます。

「無念…」

藤原理忠は賊に討ち取られ、命を落とします。島民は、皆殺しにされました。

定覚という僧が寺を拠点に賊徒と戦いましたが、守りきれず寺を落とされ、命からがら逃れて大宰府に至り、事の次第を報告しました。

「なに!対馬・壱岐が!」

「何者かに襲撃され、島民は皆殺しにされました」

「なんたることだ…」

報告が大宰府に到着した4月7日には、賊徒は
船をもって北九州沿岸に迫り、各地で襲撃を繰り返していました。

「すぐに朝廷に援軍を要請しなくては!」

大宰権帥(だざいのごんのそち)…つまり大宰府の長官である
藤原隆家は、すぐさま朝廷に書状を送り、事態を報告するとともに
援軍を要請します。

藤原隆家は、あの清少納言がお仕えした中宮定子の弟であり、
叔父にあたる藤原道長との政争に破れ、大宰府に流されていたものでした。

大宰府からの報告を受けて都では、
貴族たちが話し合います。

「しょせんは海賊が暴れているだけであろう」
「そうですとも。さわぐほどのことでは、ありません」
「そもそも九州には大宰府があるではないか。大宰府でなんとかすればよいのだ」

藤原氏による摂関政治は、ここまで腐敗しきっていたのでした!
地方で何が起こっているのか、事態がいかに深刻か、都の貴族たちは
まったく想像する能力に欠けていました。

「なんたることだ。都の貴族どもは、何もわかっていない!!」

憤慨する大宰権帥・藤原道隆。

「中央はあてにできぬ。こうしている間にも、北九州では
領民が蛮族に虐殺され、連れ去られているのだ。
こうなったら、九州だけで蛮族と戦うしかない」

そこで隆家は九州の豪族たちに協力をよびかけます。

「わが臣民が、正体不明の蛮族に虐殺され、拉致されている。どうか気骨のある者は戦ってほしい」

隆家は男気のある人物で、よい政治を行ったため人望がありました。九州じゅうから、ぞくぞくと味方が集まってきます。

一方、賊徒も勢いを増して北九州各地で暴れまくっていました。死者は400名を越し、数千名が連れ去られ、賊徒はついに博多湾に侵入してきました。

4月8日、賊徒は博多湾内の能古島に船団を集結。
翌9日、博多に上陸をもくろむ賊徒と、藤原隆家率いる官軍との間で戦いとなります。

刀伊の入寇
刀伊の入寇

ひゅん、ひゅん、ひゅんひゅん…

飛び交う矢。

「これは…かなわんっ」

賊徒の勢いに、いったん退却しようとする官軍。

その時、賊徒の船の中に捕えられていた対馬・
壱岐の領民が、

「たすけてくれーーっ」

それを聞いて官軍は、

「うぬぬ。領民を見捨てるわけにはいかぬ。いざ」

勢いを建て直し、賊徒の中にひゅんひゅんと矢を放ちますが、

びゅうーーーーーん

賊徒の矢が一直線に飛来し、ドスーーーーッ、
官軍の楯をつらぬきました。

「な、なんという矢だ!」

賊徒の矢は長さは30センチ程度でしたが、官軍の楯を射抜くほどの貫通力を持ってました。ひるむ官軍。しかし一方で、闘いのさなか官軍が鏑矢を放つと、そのするどい音に驚いた賊徒が、驚いて逃げ出す場面もあったと伝えられます。

10日、11日は激しい北風で賊徒は動けず、その間大宰府では船団を整えることができました。

12日。賊徒はふたたび博多に上陸。しかし軍勢を整えた官軍によって撃退されます。賊徒は体制を立て直すと肥前国松浦郡を攻撃しますが、これも官軍が守り戦ったことにより撃退され、ついに賊徒は引き返していきました。

刀伊の入寇
刀伊の入寇

被害は、殺害された者と拉致されたものをあわせると、記録されているものだけでも九州本土で903人、能古島9人、壱岐島387人、対馬382人にのぼりました。中にも壱岐島は島民が35人しか残らなかったということです。

賊の正体は、はじめ高麗人と見られていましたが、その後の調査で中国北東部の女真族…満州人だということがわかってきました。女真族のことを高麗人が軽蔑して「刀伊(トイ)」といったことから、この事件は「刀伊の入寇」と呼ばれています。

しかし高麗人という線も考えられ、今日に至るまで賊の正体は判明していません。

≫次の章「平忠常の乱」

解説:左大臣光永

音声つきメールマガジン「左大臣の古典・歴史の名場面」のご案内

現在18000人以上が購読中。

メールアドレスを入力すると、日本の歴史・古典について、楽しくわかりやすい解説音声を無料で定期的に受け取ることができます。毎回10分程度の短い解説で、時間を取りません。楽しんで聴いているうちに、日本の歴史・古典について、広く、立体的な知識が身につきます。スマートフォン・Androidでもお聴きになれます。不要な場合はいつでも購読解除できます。

いつも使っているメールアドレスを入力して、 「無料メルマガを受け取る」ボタンをクリックしてください。次回からお使いのメールアドレスにメルマガが届きます。

≫詳しくはこちら



スポンサーリンク