大化の改新

乙巳の変で蘇我父子を滅ぼした2日後の
6月14日、皇極女帝から息子である中大兄へ、
皇位を譲りたい旨が伝えられます。

「鎌足、どうしたものだろう。母上は
俺に天皇になれと言ってこられたが」

「古人大兄(ふるひとのおおえ)は殿下の兄であり、軽皇子は殿下の叔父です。今、古人大兄がいらっしゃるのに、殿下が位につけば、人の弟としての謹みに欠けるでしょう。しばらく軽皇子を立てて民の願いにお応えなさるのはいかがですか」

中大兄から見た孝徳天皇・古人大兄皇子
中大兄から見た孝徳天皇・古人大兄皇子

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「なるほど、一理あるな」

中大兄は母皇極女帝に、帝位につくつもりが無い旨を
奏上します。

「そうですか…。中大兄にそのつもりが無いなら
仕方がありません」

皇極女帝はその日のうちに、同母弟の軽皇子(かるのおうじ)に
譲位します。これが史上はじめての譲位となりました。

しかしはじめ、軽皇子は辞退し、甥の古人大兄に帝位を譲ろうとしました。

「古人大兄は先の天皇(舒明天皇)の子であり、年長です。この二つの理由により、古人大兄が帝位につかれるのがよいと思います」

しかし古人大兄は座を降りて後ずさりし、

「天皇の勅諚に従いましょう。どうして私に譲ることがあるでしょうか。私は出家して吉野に入り、仏道修行して天皇をお助けいたします」

そう言って刷いている太刀を地に投げ捨て、帳内(とねり。親王・内親王に使える役人)に銘じて刀を解かせ、みずから法興寺(飛鳥寺)の仏殿と仏塔との間で髪とひげをそり、袈裟姿になりました。

「なんと古人大兄が辞退すると…ふう。それでは仕方がない」

ここに至りようやく軽皇子は36代孝徳天皇として即位しました。中大兄を皇太子とします。ただし実際にはこの時代、まだ皇太子という制度はありません。

皇極天皇から孝徳天皇へ
【皇極天皇から孝徳天皇へ】

左大臣阿倍内麻呂、右大臣蘇我倉山田石川麻呂、内臣(うちつおみ)中臣鎌足以下、新しい人事が発表され、年号も「大化」と改められました。

翌年、中大兄の妹の間人皇女を后皇后として迎えます。また都を飛鳥から難波に遷します。

飛鳥から難波へ
【飛鳥から難波へ】

乙巳の変から続く一連の
政治改革のことを「大化の改新」と言っています。

翌646年正月、
孝徳天皇は新政権の方針を示した
「改新の詔」を発表されました。

一、これまで土地や人民を王族や豪族が所有していたのを廃止する
一、都を定め、地方をおさめる制度を定め、国々の国境を定める。
一、戸籍を作り、民衆に田を割り当てて耕作させる。
一、従来の税制にかわって新しい税制をつくる。

これら『日本書紀』に描かれている四か条の詔の内容の多くは、701年制定の『大宝律令』のコピーです。『大宝律令』の本文は完全には残っていませんが、もっと後につくられた『養老律令』が残っているので、『養老律令』と『大宝律令』は重なる部分が多いので、『養老律令』と比較することで「四か条の詔」は「大宝律令」のコピーらしい、とわかります。

大宝律令ができたのは大化の改新よりも50年以上後です。後の時代の条文をコピペして、改新の詔だとしているわけです。雑な仕事です。だから大化の改新は捏造だ、そもそも、無かったという論もあります。しかし、そこまで言うのは乱暴で、改新の詔なるものはあったが、原文が失われてしまったので『日本書紀』をつくるときに『大宝律令』の条文からコピーしたと思われます。

次の章「蘇我倉山田石川麻呂の粛清」

解説:左大臣光永

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