平忠常の乱

安房国府 襲撃

1028年(長元元年)6月。

下総・上総を勢力基盤とする平忠常が
下総から上総を経て安房に入り、安房の国府を襲撃します。

平忠常の乱
平忠常の乱

「もう国司の横暴には我慢ならん。
焼き滅ぼせーーー」

ひょう、ひょう、ひょう、

次々と放たれる矢。

「うわああ、何事だ、何事だ」

どこの敵が、なぜ襲ってきたかもわからないまま、
安房守惟忠(これただ。姓不明)は焼き殺されてしまいました。

関東の状況

「大変です。安房で反乱」
「なんと」

知らせはすぐに京都に届きます。

時に藤原道長が死んで一年目。
平将門の乱からは100年近くが経過していました。

関東では平将門の乱を平定した平貞盛以来、
平氏が勢力をのばしていました。

朝廷から派遣された国司も手出しができないくらい、
大きな勢力になっていたのです。

武力をもって国司を脅したり、年貢を治めない者。
むしろ私的に人民から年貢を徴収し、
私服をこやすものもありました。

こうした武士団の勢力の拡大をふまえ、
国司の側でも武装せざるを得なくなります。
もともと国司は文官であり兵力は従えていませんが、
そうも言っていられなくなります。

任国へ下る際に検非違使や
独自の武士団を従えていくものもありました。

地方の武士団の力は、それほど無視できない勢いになっていたのです。
そんな中1028年(長元元年)6月に起こったのが平忠常の反乱です。

追討使を選ぶ

6月21日。

右大臣藤原実資、内大臣藤原教通、
大納言藤原斉信以下の公卿が大内裏の
左近衛府(さこんえふ)の陣所に集まって話し合います。

「さて、誰を追討使として行かせたものでしょうか」
「なにしろ地方の武士団は、荒くれ者ばかりです。
なみたいていの者では、静まりませんよ」
「そうとうの武勇の者でないと…」

「それでしたら、前伊代守・源頼信はどうでしょうか?」
「ほうほう、あの者なら心強い」

大方は源頼信を推しましたが、結局選ばれたのは
平直方と中原成道(なかはらのなりみち)の二名でした。

この裏には、平直方の父・平維時(これとき)が息子を追討使として
選んでもらえるよう、関白藤原頼通に働きかけたことなども
あったようです。

追討使 平直方

平直方は、100年ほど前の平将門の乱を鎮圧することに功績のあった
平貞盛の曾孫です。「極めたる兵也」と称され、また本人も
名将軍の子孫ということを強く意識して、武芸を貴んでいました。

8月5日。追討使平直方は200の兵を従えて
京都を出発し下総へ向かいます。

追討使の任命があってから実に40日も経ってました。
そんなにも出発まで時間がかかった理由は、
出発に際して吉日を選んでいたことでした。
なんとも危機感の欠けた話ではあります。
都の貴族たちは、地方の反乱などしょせん中央には何の影響もないと考え、
そう重要に思っていなかったのです。

反乱の経緯

その間、反乱軍は破竹の勢いで進撃していました。

平忠常の反乱がどの位置から、どういう事情ではじまったかは、
不明です。

京都への第一報は、下総国権介平忠常が
安房守惟忠(これただ。姓不明)を焼き殺したということでした。

おそらく下総から上総を経由して、上総の国府を襲撃し、
ついで安房に入り、安房の国府を襲ったものと思われます。

平忠常の乱
平忠常の乱

それが都には安房国府が襲われた件の報告が先に届き、
ついで上総国府が襲撃された件の報告が届いたのでした。

ようやく坂東に下った平直方・中原成通一行でしたが、
まったく成果はありませんでした。あちらに、こちらに
反乱軍によって翻弄されるままに年は暮れます。

勢いづく反乱軍

翌1029年(長元2年)2月。

「ええい。追討軍は何をしているのか」
「いまだ何の戦果も上がらぬか」

朝廷ではいっこうに成果が上がらないことにゴウをにやし、
あらたに東海・北陸・東山の諸国に
忠常追討の官符(命令)を下します。

平直方らを補佐させようとしたのです。しかしいっこうに成果は
上がらず、追討軍は房総半島のあちこちに翻弄されるばかりでした。

源頼信の登場

朝廷ではジリジリ焦っていました。

「ええい。平直方は役に立たぬ。いっこうに反乱は鎮圧されないではないか」
「その間も被害は広まるばかり…」

1030年9月、ついに平直方を召し返し、最初に大半が
推薦していた甲斐守源頼信を追討使に任じ、また
坂東諸国にあらためて平忠常追討の官符を下しました。

「甲斐守源頼信。平忠常追討を命ず。
ただちに討ち取ってまいれ」

「ははっ。つつしんで拝命いたしまする」

しかし、源頼信は任地甲斐に踏みとどまり、
いっこうに動きませんでした。

甲斐の館でのんびりと弓矢の調練などしていました。

「おやかたさま、そろそろ反乱鎮圧に向かいませんと」
「面倒だ。せめて、もっと暖かくなってからにしよう」
「暖かく…」

その言葉通り、源頼信は秋が過ぎ冬となり、年越えて
寒いうちは動かず、ぽかぽかと春の陽気になった頃に、
ようやく重い腰を上げました。

平忠常の投降

「よし。そろそろ出発するか。上総へ」

1031年4月。

ちょうど出発の準備を整えていたころ、
反乱軍の首謀者平忠常が頭をまるめ出家して、
二人の子と三人の郎党とともに甲斐に出頭してきました。

「武名とどろく頼信さまが追討使に任じられたとあっては、
私など、とてもかないません。降参します」

「そうか」

平忠常こうもあっさりと降参した理由は、
よくわかっていません。

頼信は京都に書状を送り、反乱の首謀者平忠常が
出頭してきたこと、来月には忠常をともなって
上洛する予定であることを伝えます。

関白藤原頼通は、

「なんじゃ、こんなにあっけなくか…。
三年間もぐずぐずしていたのは何だったのか。
はじめに頼信を追討使に任じていれば、
よかったのではないか。まったく」

などと言ったかわかりませんが、使いの者を甲斐に送り、
頼信の功績をたたえる書状を渡します。

さて頼信一行は、上洛の途につきますが、
その途上平忠常は病にかかります。

「わしはもうダメです。どうか頼信殿、
息子たちには何の罪もありません。寛大なご処置を…」

「忠常殿、しっかりなされよ忠常殿」

六月六日平忠常は美濃国厚見郡にて死去しました。

「なんというあっけない幕切れじゃ…」

源頼信もさぞ、拍子抜けしたことでしょう。
とにかく首を斬って、その首を携えて京都入りしたのが六月十六日です。

戦後処理

忠常の首はいったん鴨川河原にさらされましたが、
降人の首をさらすのは良くないということで、
従者のもとに返されました。

忠常の息子たちはおとがめなしでした。

恩賞として、頼信は美濃守に任じられました。

こうして平忠常の乱(1028年)は鎮圧されましたが、
地方で力をのばしていった武士団の、その力が、
もはや中央からも無視できないまでに
大きくなっていることを示しました。

やがて来る武士の時代の幕開けを感じさせるものでした。

つつぎ「前九年の役(一)安倍氏の叛乱

解説:左大臣光永