彰義隊結成

こんにちは。左大臣光永です。先日、金沢文庫とその隣の称名寺に行ってきました。金沢文庫は鎌倉幕府二代執権・北条義時の孫の北条実時から始まる「金沢北条氏」が築いた図書館。称名寺はその金沢北条氏の菩提寺です。

特に称名寺は大きな庭園と池の中をそり橋と平橋が貫き、池の水ぎわにはショウブが咲き乱れ、いい雰囲気でした。何か絵画サークルでしょうか。絵を描いている人々。そして遠足の幼稚園生もおり、ほのぼのした雰囲気でした。

さて本日は、発売中の商品『新選組結成篇』に関連して、
http://sirdaizine.com/CD/MiburoInfo1.html

「彰義隊結成」です。

▼音声が再生されます▼

http://roudoku-data.sakura.ne.jp/mailvoice/Syogitai.mp3

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徳川慶喜の謹慎

慶応4年(1868年)正月3日から始まった
鳥羽伏見の戦いは新政府軍5000に対し幕府軍15000。

数に3倍する幕府軍は
しかし新政府軍に惨敗しました。

新政府軍は最新式の西洋式軍装と
武器を身に付けていました。そのためわずかな人数が
巧みに戦うことができました。

一方、旧幕府軍も徳川慶喜がフランスびいきだった
ことであり、最新式の軍装・武器を持ってはいたものの、
これをうまく使いこなせる指揮官がおらず、現場が混乱したことが
敗因となりました。

この戦いのさなか、将軍徳川慶喜は大阪城を放棄。
わずかな供回りと共に大坂天保山沖から夜中ひそかに
軍艦開陽丸に乗り込み、江戸へ逃げ出しました。

徳川のために戦っている会津藩や桑名藩の将兵を見捨ててです。
しかも、大あわての狼狽ぶりでした。

家康公以来の金扇の馬印(うまじるし)を置いてきたことに
気付いたのは、船の上でした。

8日出航。12日品川沖に到着。
慶喜は江戸城西の丸に入り、
2月12日朝廷に恭順の意をしめすため、
上野寛永寺に謹慎します。

雑司ヶ谷の会合

同日、雑司ヶ谷鬼母子神境内にある酒楼・茗荷屋に
旧一橋家家臣17名が集まりました。

「そもそもわが君は、無益な戦を避け、
天下万民のためをお思いになったればこそ、
200年来の政権を朝廷にお戻しになったのです。

それが薩長の賊徒どもの卑劣きわまるだまし討ちによって、
今日のお痛ましい事態に至ったこと…無念です。恥辱です。
みなさま方、君辱められれば臣死するの時と申します。
将軍家多年のご恩にお応えするのは、今、この時」

「そうだ!」
「その通り!」
「薩長、許すまじ!!」

酒もまわってきて、この日の会合は大いに盛り上がりました。
しかし具体的な戦略があるわけではなく、
「義憤をのべあう」という程度のものでした。

2月21日の会合では人数は60名ほどに増え、
表向きの会の名称を尊王恭順有志会としました。

「尊王」の二字を入れたのは新政府の目を考えてのことでした。

彰義隊 結成

23日浅草の東本願寺で行われた結成式では、
義をあきらかにする、という意味で内々での隊の名称を
「彰義隊」とします。

「では頭取と副頭取、それと役員を決めましょう」

投票が行われます。この日の会合で人気を二分した2人がありました。

渋沢成一郎と天野八郎。

どちらも農民出身で一橋家に取り立てられたものです。
しかし渋沢成一郎と天野八郎の性格・雰囲気は大きく違っていました。

渋沢成一郎はおちついた理論派の風で、
天野八郎は三国志の英雄豪傑のような、豪快な感じでした。

投票では天野に人気が集まります。
しかし天野は、

「頭取には渋沢さんがいいです。
私は副頭取につきましょう」

そう言って渋沢が頭取に、天野が副頭取に就任します。

彰義隊にはどんどん人が集まってきます。

「ここですか彰義隊は」
「私も入りたいのですが」
「ええ、ええ、ではこちらにお名前を」
「あのー、おいらも」

集まったのは幕臣だけではありません。
藩が新政府に与したのを良しとせず浪人した者、
町人や単なるヤクザ者まで、いろいろな者が加わり、
彰義隊は千名を越える規模に膨れ上がります。

江戸市民に人気が高かった彰義隊

「まずい。今新政府を刺激するのは、いかにもまずい」

旧幕府は彰義隊の存在が新政府に対する軍事組織と
見られることを何より恐れました。

そこで、彰義隊を江戸市中の治安維持に当たられせることにします。
軍隊ではなく、あくまで治安維持を行っているだけだという
アピールです。また彰義隊の持つエネルギーを
暴発させないようにという意味もあったのかもしれません。

エーンエーンと子供が泣いている。
どうしたの、あのね、お母とはぐれちゃったの。
おおそうか。でも安心しな。彰義隊のおいちゃんが、
さがしてやるからよ。もしもーし、この子のお母さん、いませんかー。

そんな地味な活動にも励んだために、
江戸市民の間で彰義隊は人気が出てきます。

また徳川時代への懐かしさも、彰義隊人気を高める原因でした。
この頃の江戸市民の雰囲気として、いつかは新政府軍が負けて、
ふたたび徳川の天下が来る。
そう信じたいという気持が根強かったのです。

「あらお兄さん彰義隊なの。まあ彰義隊…素敵ねえ。
頼りになるってかんじ。うんといいことしてあげるわ」

吉原では、こんなふうに彰義隊はモテモテでした。
モテたいためだけに彰義隊に入るものもありました。

中でも彰義隊に与えられたもっとも大きな仕事は、
上野寛永寺に謹慎している徳川慶喜の警護でした。

そのため彰義隊は4月3日浅草東本願寺から
上野寛永寺に屯所をうつします。

彰義隊の分裂

4月11日、江戸城が無血会場し、徳川慶喜は水戸に移ります。
彰義隊はその道中、千住から松戸までを警護しました。

ここで頭取の渋沢成一郎と副頭取の
天野八郎との間で意見が対立します。

「すでに慶喜公は江戸を離れたのだから、
我々も江戸の市外で新政府軍を迎え撃つべきである。
上野で戦をすれば、江戸が火の海になってしまう。
江戸市外で戦ったとしても、面目は立つ」

と主張する渋沢成一郎と、

「あくまで江戸に踏みとどまって、薩長を打ち破るべし」

と主張する天野八郎。

渋沢成一郎と天野八郎で意見が割れましたが、
結局、天野八郎派が勝ち、彰義隊は引き続き寛永寺に
留まることになります。

「ばかな。江戸を火の海にするつもりか。
まったく付き合いきれん…」

渋沢成一郎は同士を引きつれて彰義隊を去り、
埼玉の飯能で振武軍を結成。独自に新政府軍と戦っていきます。

ちなみに渋沢成一郎の従兄弟が、
第一国立銀行や東京証券取引所を築いた渋沢栄一です。

暴走する彰義隊

急進派の天野八郎がトップに立ったことで、
彰義隊の論調はいよいよ過激になっていきます。

とうとう、こんなことを言い始めました。

「薩長は錦の御旗を掲げて、
天道我にありという顔をしている。しかし、それは間違いである。
我々こそ輪王寺宮(りんのうじのみや)親王殿下という
宮様をいただいている。そして日光には、錦の御旗を擁している。

薩長のあおぐ京都の朝廷は、ニセモノである。
上野・日光こそ、真の朝廷なのだ。逆賊薩長、討つべし」

輪王寺宮とは孝明天皇の弟・
公現法親王(こうげんほっしんのう)
のことで、日光輪王寺の門跡を勤めていました。

彰義隊の一部ではこの輪王寺宮を
「東武天皇」「東武皇帝」として即位させる動きがあったとも
言われています。

これでは京都と吉野に分かれて争った
南北朝時代の再現です。

多くの隊士たちは京都の朝廷を否定することには、
さすがに抵抗がありました。

(なんと畏れ多い)
(うわぁ…とんでもないこと言い出しちゃったよ)
(もう関わりを持たないほうがいい)

こうして一人去り、二人去り…しかし残り続けている者は
それだけ過激な者たちでした。その中に元新撰組隊士の
原田左之助もいました。

(近藤さん、おいらまだ戦ってるぜ。
そっちに行くのはもうちょっと先になりそうだ…)

隊の雰囲気はますます
薩長との直接対決に傾いていきます。

「死ね!!」
「ぎゃああ!!」

江戸市中では、彰義隊士が新政府軍兵士を斬り殺す事件が相次ぎます。
それも、夜中に一人でいる者を、集団でなぶり殺すのです。

「これが武士のやることか」
「かわいそうに。まだ若いのに…」

新政府側でも、旧幕府側でも、彰義隊に対する憎しみが増していきます。

山岡鉄舟の説得

勝海舟は幕臣山岡鉄舟を、輪王寺宮の側近・
覚王院義観(かくおういんぎかん)のもとに遣わし、
説得にあたらせます。

「彰義隊はいまや江戸の治安を乱しているだけです。
すみやかに解散してください」

「解散。何を馬鹿な。
慶喜公を薩長に引き渡した裏切り者どもが。
勝と西郷に言っておけ。彰義隊は最期の一兵まで戦うと」

「それでは江戸が火の海になります」

「どちらにしても、戦は避けられん」

「……」

まったく話になりませんでした。

大村益次郎着任

この間、京都では新政府が、江戸城開城後も各地で旧幕府派の
反抗が続いていることにシビレを切らしていました。

「彰義隊など、しょせんは烏合の衆であろう。
なぜさっさと潰してしまわぬのか。西郷は何をしているのだ」

「生ぬるいですよ西郷のやり方は。
戦を避けよう、避けようとしているのでしょう。
結果、彰義隊のような不貞分子をのさばらせることになる」

「勝海舟にいいように手玉に取られているのではないか…」

新政府では、西郷ではらちが明かぬと新しい総司令官を
任命します。

大村益次郎(1824-1869)。

後に明治陸軍の創始者となり、
現在靖國神社に銅像が建っている人物です。

長州の出身ではじめ医者を志します。
23歳で大坂に出て緒方洪庵の適塾に学びました。

家業をついで医者となるもうまくいかず、
伊予宇和島藩に招かれ
西洋兵書の翻訳や軍艦の製造に携わります。

その後、江戸に出て鳩居堂という塾を開いて
蘭学を教えていました。その評判を耳にした
桂小五郎により長州に呼び戻されます。

高杉晋作の奇兵隊の創設にかかわり、
第二次長州征伐では長州に10倍する幕府軍を殲滅し、
勝利に導きました。

大村益次郎は江戸下向を命じられると
大坂の天保山から船に乗り、海路江戸へ向かいます。

ただし船酔いに弱く、遠州灘を越えたところで
吐いてしまったそうです。

船は品川につきます。

品川で大村益次郎を出迎えた新政府の役人は、
思わず息を飲みます。

「ほお…これは噂にたがわぬ…」

大村益次郎の風貌には、大きな特徴がありました。
おでこです。

「火吹き達磨」。

高杉晋作は、そうあだ名を付けたといいます。

「火吹き達磨」とは小さなだるま型の銅製の容器で、
水を入れて熱すると口から火を出すもので、
火鉢などに火をつける時に使いました。

大村益次郎の肖像を見ると、なるほど
いかにもゴオーと口から火を出しそうな感じです。

「なんですかな。私の顔に何かついておりますか」
「いえいえいえ、先生、どうぞ乗ってください」

品川で籠に乗り、江戸城へ向かいます。その間、
大村の頭の中では彰義隊を殲滅する作戦が、渦巻いていました。

大村益次郎の作戦

ここは江戸城西の丸。

「ただいま着任いたしました。大村益次郎です」

「うむ。それで彰義隊のこと、どうしたものか」

「戦となれば、勝つことはたやすい。
一日あれば勝てます。しかし…」

大村益次郎の一番の懸念は火事でした。

上野の山をおりたところで彰義隊が市中に火を放てば、
江戸じゅうが火の海になってしまいます。

火事をふせぐには、

●火が燃え広がりにくい日時、風向きを選ぶこと。
●彰義隊が市中に逃げ込む前に徹底して殲滅すること。

この二点がどうしても必要となることを断った上で、
大村は作戦立案にかかります。

5月1日。

上野寛永寺にたてこもる彰義隊に対して通告が出されます。

一つ、彰義隊の江戸市中取締の役を解く。
一つ、新政府によって彰義隊の武装解除を行う。

「なっ…こんなものに従えるか!」
「おのれ、どこまで我々を見くびるのか」
「戦だ。もう戦は避けられん」

とはいえこれで、彰義隊は法的根拠を完全に失い
賊軍になったわけで、脱落する者もありました。

残った3000名あまりは上野寛永寺にたてこもります。

この間、新政府は上野・谷中・根津界隈を中心に
高札をかかげ、また家々に通達を走らせました。

「15日早朝から、上野にたてこもる彰義隊に対して
攻撃を行います。戦になります。戦ですよー。
あぶないから、けして外に出ないでください。
特に子供は外に出さないでください」

「おいおい、とうとう戦かよ」
「大丈夫かなあ」

江戸市民は、ひたすら不安がりました。

5月15日早朝。新政府から彰義隊へ宣戦布告。

午前7時。

雨が降りしきる中、上野広小路に面した正面の黒門口(くろもんぐち)、
根津方面へ抜ける団子坂(だんござか)、
背面の谷中門(やなかもん)、それぞれの地点で、戦闘がはじまります。

火が燃え広がらないよう、大村はわざと雨の日を選んだのでした。

次回「上野戦争」に続きます。

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本日も左大臣光永がお話しました。ありがとうございます。

解説:左大臣光永

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