崇徳上皇

不倫の子

元永2年(1119年)、三条烏丸の屋敷で、鳥羽天皇に待望の第一子が生まれます。顕仁親王。後の崇徳天皇です。しかし鳥羽天皇は喜ぶお気持ちにはなれませんでした。

「あなた、私たちの子ですよ」

「ふん。汚らわしい。そいつは叔父子ではないか」

「あなた…」

顕仁親王の母・待賢門院璋子(たいけんもんいんしょうし)は鳥羽天皇に嫁ぐ前から白河法皇に愛されていました。しかも白河法皇との関係は、鳥羽天皇に嫁いだ後も続いていました。その結果、璋子は顕仁親王をみごもったのでした。このことは鳥羽天皇も周囲の者も知っており、いわば公然の秘密でした。

鳥羽上皇と崇徳天皇
【鳥羽上皇と崇徳天皇】

系図を見ればわかるとおり白河法皇は鳥羽天皇の祖父です。祖父の子は叔父になるため、鳥羽天皇は顕仁親王を「叔父子」と言って忌み嫌いました。

「人、皆これを知るか。崇徳院は白河院の御落子云々。鳥羽院もその由を知ろしめして、『叔父子』とぞ申さしめ給ひける」

白河法皇の溺愛

白河法皇も顕仁親王が自分の子であることを知っており、何かと贔屓にします。

「もう顕仁も5歳だろう。
そろそろ顕仁に位をゆずったらどうだ」
「………」

保安4年(1123年)白河法皇は21歳の鳥羽天皇を強引に退位させ、わずか5歳の顕仁親王を即位させます。崇徳天皇の誕生です。そして崇徳天皇即位後も白河法皇が「治天の君」として権力をふるいつづけます。

鳥羽上皇の罠

しかし大治4年(1129年)白河法皇が崩御します。すると鳥羽上皇の復讐が始まります。

(お前の子孫に帝位はわたさん…)

鳥羽上皇は、それまで白河法皇よりだった人々を左遷し、白河法皇から遠ざけられていた人々を復権させます。さらに崇徳の子孫が皇位につけないよう、罠をしかけます。

鳥羽上皇は、寵愛していた美福門院得子(びふくもんいんとくし)の生んだ三歳の体仁親王(なりひとしんのう)を養子にするよう、崇徳にすすめます。その上で体仁親王を天皇に立てて院政を行うよう、崇徳にすすめました。

「わが子を天皇に立てれば、天皇の父として院政が行なえるではないか」
「なるほど…いよいよ私が院政を行えるのですね」

崇徳天皇は父鳥羽上皇のすすめるままに体仁親王を養子にして、体仁親王に譲位しました。近衛天皇の誕生です。

(ありがたい…何だかんだ言っても、
父上は私のことを思ってくださっているのだなあ)

しかし、これは鳥羽上皇のしかけた罠でした。近衛天皇即位の宣命には「皇太子」ではなく「皇太弟」と書かれていました。つまり、崇徳は「子」ではなく「弟」に譲位したことになります。

院政とは天皇の父または祖父が現役天皇にかわって政治を行うことです。「弟」への譲位では院政を行なうことができません。「弟」。この一文字のために、崇徳は政治から締め出されたのでした。

「うおおおおぉぉおおぉっ
父上!!そこまで私を毛嫌いするのですか!!」

近衛天皇の早世

一時は半狂乱になりながらも、崇徳上皇はぐっと怒りを押さえました。

(まだ機会はある。一時の感情に流されるべきではない…)

近衛天皇はわずかに3歳。早世する可能性もあるし、鳥羽上皇が崩御する可能性もありました。まだ院政を行う望みが完全に絶たれたわけではありませんでした。

崇徳上皇はじっと機会をうかがいます。待つこと14年。ついにその機会が来ました。1155年、近衛天皇が眼病を患い17歳で早世します。その上、近衛天皇には跡取りがいらっしゃいませんでした。

(ようやく私に機会が回ってきた…)

近衛天皇の葬儀の席で、もしかしたら崇徳上皇は内心ほくそ笑んだかもしれません。これで我が子重仁が即位すれば晴れて天皇の父として院政を行えるわけです。

今様狂いの天皇

しかし鳥羽上皇の崇徳嫌いは徹底していました。

(どうあっても、お前の子孫に帝位は渡さん…)

鳥羽上皇は、崇徳上皇の弟にあたる雅仁親王を強引に帝位につけます。しかし、崇徳の院政を邪魔するためとはいえ、この人事には鳥羽上皇自身、不安がありました。それは、雅仁親王の人格です。

雅仁親王は29歳になっても毎日ぶらぶらして、まともな帝王学も学んだことはなく、やることといったら今様…流行歌を練習することくらいです。

毎日喉が摺り契れるくらい歌って、喉が摺り契れてもまだ歌っていました。「あれは無能だ」「話にならん」と周りの人びとはバカにしていました。

しかし雅仁親王の息子の守仁親王は人柄もよく、学問もできると評判でした。

そこで、将来的に守仁親王を帝位につけるまでのつなぎとして、あくまで一時的に雅仁親王を即位させることにしました。

後白河天皇の誕生です。

鳥羽上皇は後白河天皇をあくまでつなぎと考え、すぐに息子守親王に譲位させるつもりでした。あのうつけ者なら、いくらでもこっちの言いなりに操れるだろうと踏んでいたのです。

しかし、この後白河天皇が後に老獪な後白河法皇となって、策謀うずまく源平合戦の時代を生き延びていくことになります。

失意の崇徳上皇

ともかく、後白河天皇の即位によって崇徳の院政への望みは完全に断ち切られました。

「うう…父上…この仕打ち、あんまりです!」

失意のどん底にあった崇徳上皇に、摂関家の内部抗争に敗れて同じく失意の底にあった藤原頼長が接触してくるのは、それから間もなくのことでした。

摂関家の内部抗争

関白藤原忠実(ただざね)には長男忠通(ただみち)、次男頼長(よりなが)がいました。そして忠実は温厚な長男忠通より学識ゆたかな次男頼長を愛していました。忠実は長男忠通を嫌う一方次男頼長をろこつに支援し、そのことで一族内に対立が激しくなっていきます。

ついに忠実は長男忠通に内覧の地位と藤原氏の氏の長者を次男頼長に譲れと強要。長男忠通がこれを拒むと、武士をもって忠通の館を取り囲み、藤原氏の氏の長者の証である朱器台盤を取り押さえてしまいます。

こうして忠実は長男忠通を退け、次男頼長を藤原氏の氏の長者とします。しかし近衛天皇が17歳で崩御すると忠実・頼長父子が呪詛したためだと噂が立ち鳥羽上皇はお怒りになります。

「忠実・頼長め。わが子を呪い殺すとは、けして許さぬぞ。
それに引き替え長男の忠通はおだやかで、信頼できる」

こうして忠実・頼長父子は鳥羽上皇に遠ざけられ、かわって長男忠通が寵愛を受けます。後白河天皇の時代になると、忠通は関白に至ります。後白河天皇は忠通を信頼し、後白河-忠通の結びつきは強くなっていきました。

一方、失意の忠実・頼長父子は崇徳上皇と結びつきます。

「そうか…そのほうたちの境遇には、朕も共感できるところがある」

こうして…

後白河天皇-忠通  ×  崇徳上皇-頼長

この対立図式ができてきいきます。

鳥羽上皇の崩御

そんな中、保元元年(1156年)7月2日、鳥羽上皇が崩御します。

「なに父上が…!」

崇徳上皇は知らせを受けてすぐに鳥羽殿へお輿を走らせます。生涯自分のことを実の子では無いと忌み嫌ってきた父ですが、やはり父親であり、愛していました。

ところが、鳥羽殿についた崇徳上皇の車は院近臣たる藤原惟方らに遮られ、中に入ることは許されませんでした。生前鳥羽上皇は「崇徳に自分の死に顔を見せるな」と遺言していたのでした。

「父上…そこまで私を嫌っておいでなのですか…」

崇徳上皇はガックリとうなだれて、引き揚げて行かれました。

後白河天皇方の挑発

そして後白河天皇方の挑発が始まります。

7月5日、後白河近臣・信西は三条東殿に崇徳方が集まって内裏を襲おうとしていると言いがかりをつけます。翌6日検非違使をもって三条東殿を襲い、邸宅や家財を没収してしまいます。こうして崇徳上皇方が蜂起した際に拠点となる場所を奪いました。

さらに信西は没収した文書の中に頼長によるクーデター計画が記されていたと言いがかりをつけて、頼長を配流に決めます。ここに至り、崇徳上皇と藤原頼長はどうしても決起さぜるをえない状況に追い込まれました。

崇徳上皇 鳥羽殿を脱出

9日夜、身の危険を察した崇徳上皇は供回りの者をつれて、鳥羽殿を、お輿に乗って脱出されます。

「大丈夫であろうな。朕は勝てるのであろうな」
「上皇さま、ご安心ください。すでに上皇さまをしたって、
多くのたのもしい武士が集まっております」

崇徳上皇を乗せたお輿は夜中、白河北殿に入りました。

保元の乱 関係図
【保元の乱 関係図】

為朝の案が蹴られる

白河北殿には平忠正・源為義・源為朝らが集まっていました。

源為朝はこの年17歳。弓の名手で、七尺(2m)の大男。強弓を引くために左腕が右腕よりも4寸(12cm)も長かったと伝えられます。あまりに乱暴が過ぎるため父義朝より勘当されて九州に流されていましたが、その間、強弓をもって九州各地を制圧し、鎮西八郎為朝の名で恐れられました。

作戦会議の中、為朝が発言します。

「勝利するには夜討ちが一番です」

しかし藤原頼長は為朝の意見を退けます。

「これは帝同士の国争いである。夜討ちなどもっての他。
朝になって大和や吉野から援軍が来るまで、動くべきではない」

藤原頼長はこの年37歳。父忠実の寵愛を受けて、兄忠通をおしのけて左大臣に至りました。古今の学問に通じあらゆることを記憶しており「日本一の大学生(だいがくしょう)」と異名を取りました。

一方で職務には容赦が無く、遅刻した職員の家を焼き討ちにするなど極端な行ないが目立ちました。宇治に別荘があったため「宇治の悪左府」とも呼ばれていました。「左府」は左大臣の中国風の言い方です。

頼長に夜討ちの案を蹴られた為朝は大声でわめきます。

「後白河方についた兄義朝は、今夜必ず夜襲をしかけてきますぞ
味方は逃げまどうことになりますぞ」

そして、事実その通りになったのでした。

後白河天皇方 ~ 義朝の案が採用される

一方、後白河天皇-忠通のもとには平清盛・源義朝らがつき、高松殿に陣取りました。

7月10日夜、高松殿では作戦会議が開かれていました。指揮を執るのは少納言入道信西です。

信西(1106-1160)。出家前の俗名を藤原通憲(ふじわらのみちのり)と言いました。藤原といっても摂関家ではなく、不比等の長男武智麻呂を祖とする藤原南家の出身です。歴史ある家柄ではありますが、この時代にはすっかり中流貴族に落ちぶれていました。

通憲は頭脳明晰で「諸道に達せる才人なり(『尊卑文脈』)」と評されますが、家柄が悪いために出世できませんでした。失望した通憲は39歳で出家し、信西と名乗りました。

その後いろいろあって、後白河天皇に重用されるようになっていました。

信西の前に召し出された源義朝が言います。

「数で劣るわがほうが勝利するには先制攻撃しかありません。
夜討ちをかけましょう」

信西は言います。

「戦慣れした義朝殿の意見を私は取る。すぐに夜討ちの準備をせよ」

夜討ち決行

11日未明、後白河天皇方600騎は三隊に分かれ、敵崇徳上皇方がたてこもる白河北殿を目指します。

二条大路からは平清盛率いる300騎が、大炊御門大路からは源義朝率いる200騎が、近衛大路からは源義康率いる100騎が、それぞれ押し寄せます。この間、後白河天皇は高松殿に隣接する三条殿でひたすら勝利を祈っておられました。

保元の乱
【保元の乱】

白河北殿突入

「火を放てーーッ!!」

午前8時。後白河天皇方が白河北殿に火を放ち、一気に御所になだれ込みます。

ワーーッ、キャーーー

朝の白河北殿は地獄絵図となりました。たちまち御所全体に火がまわり、崇徳上皇方は死にもの狂いで逃げ出します。白河北殿は焼け落ち、崇徳上皇も藤原頼長も命からがら逃げ出します。

悪左府頼長の最期

藤原頼長は逃げる途中、首に矢を受けてしまいました。

「うう…父上…父上…」

藤原頼長は父忠実を頼って奈良へ逃げます。しかし父忠実は舘の門を閉じて、頼長を無視しました。頼長は憤怒のあまり舌を食いちぎって吐き捨てます。その後、親族の千覚律師をたよって興福寺を訪れ、37年の生涯を閉じました。

崇徳上皇 捕縛される

一方、崇徳上皇はほうぼうの知人を訪ね歩きますが、誰もかれも関わりを持つのを恐れました。

「叩けども音せず。世界広しといえども立入らせ給うべき所もなし」(『保元物語』)

合戦の翌日、髪を下し弟の覚性法親王(かくしょうほっしんのう)を頼って仁和寺に入ります。しかし覚性法親王は無言で後白河方に通報します。後白河方の追手が押し寄せます。

「上皇さまですね。ご同行願います」
「くっ…」

かくして崇徳上皇は後白河天皇方に引き渡され、処分を待つこととなりました。

遠流の決定

「上皇さまを、讃岐へ遠流とする」

信西のよく通る声が響くと、ざわざわと周囲はわきたちます。

貴族たちは畏れ多くも上皇さまを島流しにするこということに人々は驚きますが、結局崇徳上皇は讃岐に遠流と決まります。

讃岐へ

7月23日深夜、崇徳上皇はものものしく武士たちが取り囲む網代車に乗せられます。いよいよ都を離れるという時、崇徳上皇はこう詠まれました。

都には今宵ばかりぞ 住の江の きしみちおりぬ いかでつみ見ん

(都にいられるのは今夜が最後だ。住の江の岸の道をくだって、津海を見ることになってしまった。その先にどんな罪があるのだろう)

「待て。都を離れる前に、父の墓を今一度参っておきたい」

生涯自分のことを憎み続けた父鳥羽上皇でしたが、やはり父親であり愛していました。しかし時間が迫っており、申し出は容れられることはありませんでした。

一行は鳥羽から船に乗り、草津から讃岐に漕ぎ出します。崇徳上皇は舟の屋形に閉じ込められ、外からは釘が打ち付けられ、ひどい扱いでした。

(はあ…どうしてこうなってしまったのか…)

配所の暮らし

舟は十日あまりで讃岐松山の津につき、それから直島という無人島に移動し、ここに崇徳上皇の仮の御所が作られます。四方を土塀で囲まれ、ただ一箇所だけ出口を開けて、食事の差し入れ以外、人の出入りは許されず、慰めといっては波の音と浜千鳥の声。そして月の光しかありませんでした。

讃岐
【讃岐】

(さびしい…人恋しい…
都では、皆どうしているであろう)

五部大乗経

そんな中、崇徳上皇はある慰めを見つけられます。写経です。『保元物語』には自らの血をもって三年かけて五部大乗経を書写し、仁和寺の覚性法親王に送ったといいます。

「これを、父の御陵のある安楽寿院か
石清水八幡宮に奉納してもらいたい」

そして崇徳上皇の御製の歌が添えられていました。

浜千鳥あとは都へ通へども身は松山にねをのみぞなく

(浜千鳥の足跡ならぬ筆の跡は都へ通うが、わが身は千鳥と同じく松山で鳴いてばかりいる)

しかし後白河天皇の近臣信西が、後白河天皇に進言します。

「罪人の書を都に入れるのは不吉です。
呪いがこめられているかもしれません」

結局、奉納は許されませんでした。

天狗となった崇徳上皇

三年かけた五部大乗経が容れなれないとなって、崇徳上皇は叫びます。

「日本国の大魔縁となって皇を取って民となし、民を皇となさん」(日本国の大魔王となって天皇をつかまえて民衆の地位に落とし、民衆を天皇の地位につけよう)

そして舌を食いちぎって五部大乗経に呪いの血文字を書き記し、海に投げ込みました。

それ以来、崇徳上皇は髪も爪も伸ばし放題で天狗のような姿になっていきました。

1164年、崇徳上皇は配流生活9年目にして46歳で崩御します。その御遺体は白峯山(しらみねさん)の白峯陵(しらみねのみささぎ)に葬られました。

崇徳院の怨霊

その後都では保元の乱・平治の乱に勝利した平家一門は繁栄が極めます。

しかし治承元年(1177年)後白河法皇を黒幕とする反平家クーデター「鹿谷の陰謀」が発覚。この頃から平家の繁栄にも陰りが見え始めます。

また比叡山の僧兵が都へ強訴してきたり、天然痘の流行、安元の大火など、さまざまな社会不安が都を襲いました。

「崇徳上皇の祟りでは…」

人々の声が強くなっていきます。朝廷では崇徳上皇に「讃岐院」あらため「崇徳院」の号を送り、同じく保元の乱で討たれた藤原頼長に正一位太政大臣の位を贈りました。

翌1178年、清盛の娘徳子が高倉天皇との間に子をなしますが、難産でなかなか生まれませんでした。占い師に占われせた所、崇徳院と藤原頼長らの怨霊の仕業ということでした。清盛はすぐさま供養を行います。

1185年、後白河法皇が崇徳院の魂を怨霊を鎮めるため、鴨川の東春日河原に粟田宮(あわたのみや)を建てます。ここは保元の乱で戦場になった白河北殿があったところでした。

西行法師は讃岐に崇徳院の陵墓を訪れ、こう詠んでいます。

よしや君昔の玉のゆかとてもかからん後は何にかはせん

(たとえどんなにきらびやかな御殿に住んでいたとしても、死んだ後にそれが何になるでしょうか)

平家一門が繁盛したことで実権は朝廷や貴族から武家に移りました。以後、明治時代まで朝廷に実権が戻りませんでした。まさに崇徳院の予言通り「皇が民となり民が皇」となりました。

700年目の帰京

慶応4年(1868年)、明治天皇は即位する際に勅使を讃岐に遣わし現地に社殿を造営します。そして崇徳院の魂をお迎えして京都御所のすぐ近くに白峯神宮(京都市上京区)を創設されました。

あれほど都へ帰ることを願いながら亡くなった崇徳院の、実に700年ぶりの帰京となりました。

戊辰戦争では崇徳院が旧幕府軍と奥羽連合の味方とならぬよう、朝廷は祈祷を捧げています。

東京オリンピック(1964年)の時は昭和天皇が四国の崇徳天皇陵に勅使を派遣し、八百年式祭をとりおこなわれました。

ちなみに白峯神宮には藤原仲麻呂の乱に敗れて淡路島へ流された淳仁天皇が、崇徳院とともに、合祀されています。