推古天皇

三頭政治

推古天皇は日本初の、そして東アジア初の女帝として即位されました。欽明天皇の第二皇女で、用明天皇の同母妹として生まれ、幼少の頃は額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)、後にカシキヤヒメと申し上げました。

欽明天皇~推古天皇まで
【欽明天皇~推古天皇まで】

容姿端麗で、ふるまいも優雅でした。18歳の時、敏達天皇の皇后に立ち、34歳の時に敏達天皇が崩御します。39歳の時、蘇我馬子によって崇峻天皇が暗殺されると、帝位が空になってしまいます。

「どうか皇女さま、帝位についてください」

「これでは国が傾きます」

「そんな…私にはとても」

カシキヤヒメは辞退しますが、百官は上表文を奉り、再度カシキヤヒメに願いいれます。三度目にようやくカシキヤヒメは即位のご決断をされました。

第33代推古天皇です。豊浦宮(とゆらのみや)で即位されました。現在の明日香村豊浦(とようら)です。

推古天皇は即位すると、甥にあたる厩戸豊聡皇子(うまやとのとよみみのみこ)を皇太子としてまた摂政として立てられました(以後、厩戸皇子)。厩戸皇子は用明天皇の第二子で、母の皇后を穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)と申し上げました。

法隆寺 五重の塔
法隆寺 五重の塔

皇子がお生まれになった日、皇后は宮中のさまざまな役所を視察しておられる所で、馬を扱う役所で馬小屋のところで、何の苦しみもなくお生みになり、厩戸皇子と名づけられたといいます。

生まれてすぐ物をしゃべり、知恵にあふれており、成人すると十人の言葉を同時に聴き、しっかりと聞き分けたといいます。未来を予言できたとも。仏教を高麗の博士恵慈に習い、仏教以外の儒教などを百済の博士覚哿(かくか)に学んで、どちらも習得されました。

「お前はかしこい子だ。なにか、奇跡的な気がする」

父の用明天皇は皇太子をことに愛され、宮の南の上殿(うえのみや)にすまわせました。厩戸皇子の一族を上宮王家(うえのみやおうけ)というのは、そのためです。

また推古天皇は厩戸皇子にお命じになり、仏教をさかんに行わせました。中にも四天王寺を建てたのは、衣摺の合戦で物部守屋を滅ぼすべく四天王に祈った時、「どうか敵を滅ぼしてください。そうすれば、寺を建てましょう」との約束を果たされたことでした。

また、蘇我馬子が、大臣(おおおみ)に任じられ、推古天皇・廐戸皇子・蘇我馬子三者体制の時代が始まります。

推古朝の新羅遠征

推古天皇の8年(600年)新羅と任那の間で争いが起きると、任那は倭に助けを求めてきました。そこで1万人余りの大群を率いて任那のために新羅討伐に向かいます。それっ、任那を助けるのだと勢いづいて、新羅に着くと早々、五つの城を攻め落とします。

「ひ、ひいい、…かなわぬ」

新羅王は恐れをなして白旗を揚げ、さらに六つの城を割譲してきました。大将軍と副将軍は話し合います。「どうしたものだろう。新羅王は降伏したいといっているが」「降伏してきた者をこれ以上攻めるのは、よくないでしょう」「うむ。私も同じ考えだ。すぐさま大君に奏上しよう」

推古天皇は文書を受け取ると、新羅にも任那にも役人を遣わし、調査させました。ほどなくして新羅・任那両国から倭国に使者が到着し、奏上します。

「天上には神がましまし、地上には大君がまします。この二柱の神をおいて、他にありがたいものが、あるでしょうか。もうわれらは争いません。また船の舵が乾く間もないほど、毎年必ず参って貢物を奉ります」

「…あのように申しているが、どうであろうか」

「まあ、信用してみましょう」

そこで将軍を引き揚げさせたところ、将軍たちが新羅から引き揚げると、すぐに新羅は任那に侵攻しました。

「やはり…彼らに約束を守るなどということは、はじめから期待するのが間違いでした。今度こそ攻め滅ぼしましょう」

翌推古9年(601年)、百済と高句麗に使者を送って、任那復興に協力するよう約束させました。翌602年の春。厩戸皇子の実弟・来目皇子(くめのみこ)を大将軍とし2万5千人を新羅討伐のために送り出しました。

しかし来米皇子は筑紫についた時、病にかかり、翌603年の春、筑紫で帰らぬ人となってしまいます。「なんですって、来米皇子が」知らせを受けた推古天皇はたいそう驚かれ、厩戸皇子と大臣蘇我馬子を召し出し、おっしゃいます。

「来目皇子が筑紫で薨じました。なんと悲しいことでしょう」

それを聞いて厩戸皇子は、ああと肩を落とし、

「新羅の奴らが、弟を殺したのです!」

普段は冷静な厩戸皇子も、この時ばかりは怒りに声を荒げました。

603年の夏、あらためて来目皇子の兄の当麻皇子(たぎまのみこ)を新羅を討伐するために遣わします。

「弟の敵・新羅を必ず滅ぼしてまいります!」

気負いたって難波を船で出発する当麻皇子。しかし明石で妻が亡くなると悲しみにかられ、遠征どころではなくなり、戻ってきてしまいました。こうした不幸が重なり、推古天皇の時代の新羅征伐は棚上げとなってしまいました。

≫次の章 遣隋使

解説:左大臣光永