北条政子と静御前

こんにちは。左大臣光永です。だんだん夜も暖かくなってきて、
深夜徘徊も苦にならない、楽しい季節となりましたが、
いかがお過ごしでしょうか?

私は今週金曜日に東京多摩で
「鎌倉と源氏三代の栄光」と題して講演をしますので、
その準備をしています。

本日のメルマガでは、この講演にあわせて、
北条政子と静御前の話をお届けします。

有名すぎるエピソードですが、
『吾妻鏡』の原文(書き下し文)で読んだことのある方は
少ないと思います。おなじみのエピソードでも
原文で読むと、新しい感動が、こみ上げるはずです。


http://roudoku-data.sakura.ne.jp/mailvoice/Shizuka.mp3

文治2年(1186年)。

逃亡した源義経の愛妾静御前が吉野で捕えられ、
尋問を受けることとなりました。
この時政子が頼朝に言います。

「静殿は白拍子の上手。その妙義を見る前に京都に戻したとあっては
一生の後悔。ぜひ見たいものです」

「ううむ。そうは言ってもあの者が承知するか」

静は舞を舞えといわれても、やはり気がすすまず、
病気と称して何度も断りますが、
再三求められてようやく応じます。

鶴岡八幡宮の回廊に召し出された静御前。
工藤佑経が皷を、畠山重忠が銅拍子を受け持ちます。

頼朝、政子はじめ鎌倉中の御家人たちが見守る中、
静は白雪の袖をめぐらして、ゆったりと舞い、そして歌います。

吉野山 峰の白雪ふみ分けて
入りにし人の 跡ぞ恋しき

また別の曲を歌っての後、

しづやしづ しづのをだまき 繰り返し
昔を今になすよしもがな

「をだまき」は糸を丸く巻いたもの。
糸を「繰る」ことから次の「くりかへし」を導きます。

昔とは、静御前が義経と幸せに暮らしていた時とも、
頼朝と義経がともに手を取りあい平家をたおそうと誓い合った昔とも
取れます。

「けしからん。関東の平和を願うべき席で、
反逆者義経のことを歌うとは」

ぷいと立ち去ろうとする頼朝に、政子が言います。

「あなた、なんと情けない言いようですか。
忘れたわけではございますまい。
あなた様が伊豆にいらした流人のころを。
この私との間に婚約をなさいましたが
父は平家に目をつけられることを恐れて、
私を閉じ込めたのです。

しかし私はあなたへの想いを捨てきれず、
暗い夜に雨風をしのぎつつ、
あなたの館に赴いたことでした。
そして石橋山の合戦が始まりまりまして
からは、あなたのお言いつけ通り伊豆山権現に留まりましたが、
その心細かったこと。

あの時の私と、今の静と、心は同じでございます。
もし義経殿との長いよしみを忘れ募る思いを捨てるなら、
どうしてこれを貞女といえましょうか。
どうか静殿の心中をお察しくださり、
この幽玄なる妙義に心配りを賜りたいものです」

政子にそう言われて頼朝も昔を思い出したのか、
怒りは静まり、静に褒美を下しました。

二品(にほん)并(なら)びに御臺所(みだいどころ)、鶴岡宮(つるがおかぐう)に御參(ぎょさん)す。次を以て、靜女(しずかめ)を廻廊に召し出被(いだされ)る。是(これ)、舞曲を施さ令(し)む可(べ)しに依(より)て也。此(こ)の事、去る比(ころ)仰せ被(られ)る處(ところ)、病痾(びょうあ)の由を申し參不(まいらず)。

身に於(おい)て屑(いさぎよし)と不(せざ)る者(は)、左右(とこう)に不能(あたわず)と雖(いえど)も、豫州(よしゅう)の妾(めかけ)と爲(し)し、忽(たちま)ち掲焉(けちえん)の砌(みぎり)に出(いず)る之条、頗(すこぶ)る耻辱(ちじょく)之由(よし)、日來(ひごろ)内々に之(これ)を澁(しぶ)り申すと雖(いえど)も、彼(か)は既に天下の名仁(めいじん)也。

適(たまたま)、參向(さんこう)して歸洛(きらく)近きに在りて其の藝(げい)を不見者(みざるは)、無念の由(よし)、御臺所(みだいどころ)頻(しき)りに以て勸(つと)め申さ令め給ふ之間。之を召被(めされ)る。

左衛門尉(さひょうえのじょう)祐經(すけつね)、鼓(つづみ)つ。畠山二郎重忠、銅拍子(どうひょうし)を爲(な)す。靜先ず歌を吟じ出(いだ)して云(い)はく

吉野山 峯の白雪ふみ分て
入にし人の 跡ぞこひしき

次に別物の曲を歌う之後、又和歌を吟じて云はく、

しつ(づ)やしつ しつのをたまきくり返し
むかしをいまに なすよしもかな

誠に是(これ)社壇(しゃだん)之壯觀(そうかん)、梁(はり)の塵殆んど動く可(べ)し。上下皆、興感(きょうかん)を催(もよお)す。

二品(にほん)仰せて云(い)はく、八幡宮寳前(はちまんぐうほうぜん)に於(おい)て藝(げい)を施(ほどこ)す之時、尤(もっと)も關東の萬歳(ばんざい)を祝(いわ)う可(べ)き之處(ところ)、聞し食す所を不憚(はばからず)、反逆の義經を慕(つの)り別れの曲を歌うは奇恠(きっかい)と云々(うんぬん)。

御臺所(みだいどころ)報じ申被(もうされ)て云(い)はく、君が流人(るにん)と爲(な)し、豆州(ずしゅう)に坐(ましま)し給ふ之比(ころ)、吾(われ)に於(おい)ては芳契(ほうけい)有ると雖(いえど)も、北條殿(ほうじょうどの)時宜(じぎ)を怖れ、潜(ひそか)に之(これ)を引籠被(ひきこもされ)る。

而(しか)るに猶(なお)君に和順(わじゅん)し、暗夜(あんや)に迷い、深雨(しんう)を凌(しの)ぎ、君之所に到る。亦(また)、石橋の戰場に出(い)で給ふ之時、獨(ひと)り伊豆山(いずさん)に殘(のこ)り留まり、君の存亡を不知(しらず)、日夜魂を消す。

其の愁(うれい)を論ずれ者(ば)、今の如き靜之心は豫州(よしゅう)の多年之好(よしみ)を忘れ戀慕(れんぼ)不(せざ)る者(は)、貞女(ていじょ)之姿に非(あら)ず。外に形(あらわる)る之風情に寄せ、中に動く之露膽(ろたん)を謝(しゃ)す。尤(もっと)も幽玄と謂つ可し、抂(ま)げて賞翫(しょうがん)し給ふ可(べ)しと云々(うんぬん)。時于(ときに)御憤(おいかり)休むと云々。小時(しょうとき)して御衣(ぎょい)夘華重(うのはながさね)を簾外(れんだい)に押し出し、之(これ)を纒頭(てんとう)被(され)ると云々。

■二品 頼朝。 ■御臺所 政子。 ■豫州 義経。

『吾妻鏡』文治2年4月8日

本日も左大臣光永がお話しました。ありがとうございます。

つづき 奥州藤原氏(一)初代清衡

解説:左大臣光永