新選組(47)新選組 江戸へ

こんにちは。左大臣光永です。
ようやく東京に戻ってまいりました。
しばらく実家の熊本で、見晴しのよい世界にいたせいか、
視力がよくなっているような気がします。

あれ、あんな遠くの看板の文字が読める、みたいな。
けっこう視力というのは変動するものかもしれませんね。

さて本日は新選組の第47回
「新選組 江戸へ」です。

順動丸・富士山丸 江戸へ

慶応4年(1868年)正月。

鳥羽伏見の戦いに新選組は惨敗します。

最強をほこった新選組も新政府軍の圧倒的な火力の前に、
なすすべもありませんでした。


敗れた新選組は順動丸・富士山丸に分乗し、
江戸に向かいました。
150名の隊士のうち20数人の戦死者と行方不明者を出し、
残っているのは116名でした。

まず9日に永倉新八が先発して
順動丸に乗りこみ、10日には近藤、土方らが
負傷者をともなって富士山丸に乗りこみます。

甲板にも船室にも、傷の手当ての間に合わない隊士たちが
ぐったりと身を横たえたり壁によりかかったりしていました。

近藤は右肩に傷を負っていました(左肩説も)。
昨年の暮れ、伊藤甲子太郎の同志篠原泰之進一派に襲撃された時の傷でした。
この傷がために、鳥羽伏見の戦闘には参加することが
できませんでした。

今回の江戸下向は近藤勇にとって、
文久三年(1863年)に上洛してから、
二度目です。

つくづく、近藤が思うのは、
妻つねと、娘たまのことです。

前回、元治元年(1864年)に里帰りした時は
忙しく、まともに妻子と顔をあわせる暇もありませんでした。

(今年はたまは七歳…。どんなに可愛くなっているだろう…)

負け戦による撤退ではありますが、妻子のことを考えると
思わず期待が高まる近藤でした。

沖田総司は近藤と同じ富士山丸に乗りこんでいました。
持病の肺結核が、悪化していました。

しかし沖田には暗いそぶりは少しもなく、隊士たちに冗談を言っては
笑わせていました。

本人も明るく笑い転げますが、そのたびに

「ごほっ、ごほっ」
「おい、大丈夫か総司」
「近藤さん、心配いりません。笑うと後で咳が出て困りますよ」

そう言ってさわやかに笑うのでした。

江戸到着

1月12日順動丸は品川に入港。
68名の隊士たちが茶屋「釜屋」に荷をおろします。

一方、負傷者を載せた富士山丸はいったん横浜へ向かい、
負傷者を横浜病院に預けた後、15日品川に入港します。

近藤勇は沖田総司とともに品川で降ります。

「総司。お前だいぶ悪いようだなあ」
「近藤さん、こんなの、どうってことないですよ。
心配しないでください」

透き通るような総司の笑顔を見ていると、かえって
近藤は胸をしめつけられるのでした。

(こいつくらい死に対して悟りきった奴もめずらしい…)

近藤と沖田は治療のために神田和泉橋の医学所へ向かいます。
医学所には幕府典医・松本良順がつめていました。

旧幕府は新選組の江戸駐屯所として鍛冶橋門内の
若年寄の屋敷を用意してくれます。

隊士たちはここを本陣として再起をはかることとなります。

戎器、砲にあらざれば不可

1月16日、佐倉藩江戸留守居役・依田七郎が近藤勇・土方歳三両名を
江戸城に召しだし面談します。

「それで、鳥羽伏見の戦いは、どうであったのか」

「私は参加しておりませんので、こちらの土方から申し上げます」

「うむ。土方とやら、申してみよ」

「ははっ」

土方が顔を上げ、口を開きます。

「畏れながれもうしあげます。
もはや銃と大砲がなければ戦になりませぬ。
剣と槍で戦は、不可能です」

「なっ…!」

土方の言葉には、実際に戦闘に参加したからこその
重みがありました。

甲陽鎮撫隊

2月12日。近藤勇はふたたび江戸城に召し出されます。

「新選組に、上野寛永寺に謹慎中の慶喜公の警護を任せたい」

「はっ…謹慎…?でございますか」

将軍徳川慶喜は陸軍総裁勝海舟に事態の収拾をまかせ、
みずからは上野寛永寺で謹慎生活に入ります。
新政府に対して、そむくつもりは無いとアピールするためでした。

近藤勇はガックリします。

確かに一度は味方を見捨てた慶喜でしたが、
近藤としては、きっとそれは何か策のあることで、
江戸で巻き返しをはかるおつもりなのだ、
そう信じたい気持ちがありました。

しかし、慶喜は本気で保身をはかっている
だけなのでした。ここに至り、近藤にも
それは見えてきました。

しかも、新政府軍がすでに江戸に迫っており、
総司令官たる慶喜が前に立たないでは、
どうやって戦をするのか。

そのような疑問や憤りを感じつつも、
とにかく近藤は上野寛永寺の徳川慶喜護衛を
引き受けます。

一方で、新政府軍を迎え撃つ作戦を
みずから立案し、勝海舟に提案します。

「甲府城を拠点に、新政府軍を迎え撃ちましょう」

「おお、それはいい。
もともと甲府城は江戸西方の守として築かれた城。
これを拠点に抵抗することは、理にかなっています。
すぐに軍資金と大砲を用意するから、
近藤殿、甲府城へ向かってください」

「ははっ」

しかし勝海舟は、本気で新政府軍と戦うつもりなど
ありませんでした。

すでに西郷隆盛との間で
江戸城無血開城の話を進めているところであり、
今新選組に暴れられたら計画がメチャクチャになります。

勝海舟としては新選組のような血の気の多い集団は
さっさと厄介払いしたいのでした。

でないと今後の新政府との交渉の
障害になります。

そこへ近藤自ら「甲府へ出陣します」と
言いだしました。したり。勝は厄介ばらいのチャンスと見て
近藤の提案を、すんなり受け入れました。

2月28日、上野寛永寺で将軍徳川慶喜の警護にあたっていた
新選組のもとに甲州に出撃せよと指令が下ります。

「ようやく、鳥羽伏見の雪辱が晴らせる」
「今度こそ、容赦しねえ」

いきり立つ新選組隊士たち。

幕府からは軍資金三千両、大砲二門、元込め銃三百挺が
下されます。

一方、土方は
隊士に新政府軍が着用したのと同じ
西洋式のズボンをはかせ、軍備も西洋化し、土方自身も
西洋式のコートを着用して髪も西洋風に切りました。

鳥羽伏見での負け戦の教訓に基づき、
土方は自分自身を西洋式近代戦闘の
指揮官として作り替えていたのでした。

2月30日、一行は鍛冶橋の本陣を出発します。

近藤勇は高らかに宣言します。

「きけい。今や我らは新選組ではない。
これより甲陽鎮撫隊とあらためる」

近藤は大名籠に乗りこみ、
土方は馬にまたがります。
近藤は大久保剛、土方は内藤隼人と名もあらためました。

一行の数、はじめ80人。
途中、内藤新宿で矢島内記の率いる100人が合流し
甲州街道を西へ向かいます。

次回「甲州勝沼の戦い」お楽しみに。

本日も左大臣光永がお話しました。
ありがとうございます。

解説:左大臣光永