新選組 第43回「都落ち」

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王政復古の大号令

慶応三年(1867年)12月9日。
王政復古の大号令が発せられ、
討幕派の薩摩・長州を中心とする政権ができました。

徳川の世は、これで完全に終わりました。

とはいえ徳川慶喜は新政権下でそれなりの地位を
与えられるものと期待していました。

さすがにすべて奪うまではしないだろうと。

しかし薩摩・長州の首脳部は徹底していました。
徳川家に領地すべてを返上させることを決定しました。

「これでは、徳川の臣は、みな露頭に迷うではないか」
「おのれ薩長。そこまで我らを追い詰めるのか」
「戦じゃ。もう戦は避けられぬ」

ワアワア言う旧幕臣たちを前に、徳川慶喜は苦渋の決断を下します。

「余は大阪城へ下ろうと思う」

「な…!」「何をおっしゃいますか!!」

慶喜の考えでは、このままでは旧幕臣と新政府軍との間で戦になる。
王城の地を戦火のちまたにすることはできない。
新政府軍に逆らう気持ちが無いことを示すために、
二条城を去って大阪へ下ろうということでした。

「うう…おいたましや…」

涙を呑んで、慶喜に従う幕臣たち。

永倉新八の場合

12月14日。京都守護職・京都所司代・町奉行所が解体されます。

新選組も若年寄永井尚志(ながいなおゆき)について、
大阪に下ることとなりました。

さて永倉新八は、
かねてから島原の亀屋の小常という女を馴染みにしていましたが、
この年の7月、小常にはお磯という女子が生まれていました。

その後小常は祇園の大和橋の姉の家に養われていましたが、
12月11日、小常は亡くなっていたのでした。産後の健康状態が悪かったのです。

「なに…小常が、ああ…」

知らせを受けた永倉新八はガックリと肩を落とします。

七条堀川不動堂村の屯所では、今まさに都落ちということで、
バタバタと忙しくしていました。
屯所の外には、そこかしこに薩長の兵士たちがひしめいていました。

「こんな状況では、満足に葬儀にも
顔を出してやれない。いかにも口惜しいことだ」

永倉は人を送って小常の遺体を松原通り新勝寺へ埋葬させます。

そこへ、永倉を訪ねてきた者がありました。

「永倉さま、永倉さま」

「うん…?お前は」

「お磯さまの、乳母でございます」

「なにお磯の」

見ると、乳母は赤子を抱いています。
永倉と小常との間に生まれた、お磯でした。
お磯は今、まさに永倉の目の前で、乳母の胸に抱かれているのでした。

「この子のためにも永倉さまに引き取ってほしいと、
小常さまが遺言したそうです」

「うむむ…引き取ってやりたいは山々ながら、
この状況では、とてもかなわぬ。
とにかく、こっちへ」

永倉は乳母の手を引いて屯所前の八百屋へ駆け入り、
奥の間を借りて、乳母と向かい合います。

「ここに五十両あるから、江戸の松前藩邸内
永倉嘉一郎(かいちろう)まで届けてほしい。

これは叔母の形見の巾着であるから、
見せれば嘉一郎存じて居るはず。
きっとこの子を引き取るであろう。

ああ父と娘の初対面であるというのに、
こんなあわただしい都落ちのさなかとは。
今生の名残。別れの杯でも交わそう」

涙ながらに永倉は幼子を抱いた乳母と別れの盃を酌み交わし、
さらばと愛娘の姿を幾たびが振り返りつつ、屯所にいったん帰り、
その日の夕刻、同志とともに京都を出発し、大阪へ向かいます。

近藤勇が隊士たちに告げます。

「天下の情勢は諸君も知っての通りである。
出陣の覚悟をもって出発されたい」

思えば文久三年に京都についてから、文治・慶応と
年を重ねてきた京都の町を後にすることは、
さまざまな感慨がありました。

そしてこれ以後、新選組が京都に戻ってくることは、
二度とありませんでした。

大阪から伏見へ

一向は大阪・北野天満宮境内に落ち着きます。
近藤勇はすぐに大阪城の徳川慶喜に到着を告げると、

「新選組は伏見を警護せよ」

とのお言葉。

旅の疲れを癒す間もなく、翌12日の朝、
新選組は北野天満宮を発ち、伏見へ向かいます。

薩長の軍勢が大阪を攻めてくるとすれば、
京都と大阪の中間の伏見は、
激戦地となるはず…。

隊士一同、薩長のカンゾクどもに
一矢報いんとの気魄に燃えていました。

次回「新選組 第44回「近藤勇 狙撃事件」」お楽しみに。

解説:左大臣光永

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