新選組 第42回「天満屋騒動」

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慶応三年(1867年)12月7日。

近藤勇は西本願寺境内で紀州候が宿所として使っている
興正寺(こうしょうじ)に招かれていました。

興正寺
興正寺

興正寺
興正寺

「それで、紀州候より直々に
我々に御用の趣とは…?」

「うむ…」

(※現在、興正寺は西本願寺と分かれていますが、
当時は西本願寺の境内にありました)

いろは丸事件

紀州候の話はこうでした。

この年、慶応三年(1867年)の三月。

瀬戸内海で、土佐の坂本龍馬率いる海援隊の乗ったいろは丸と、
紀州藩の軍艦・明光丸(めいこうまる・みょうこうまる)とが衝突しました。

海援隊隊士たちは明光丸に救出されて事なきを得たものの、
いろは丸は沈没してしまいました。

交渉の結果、紀州和歌山藩が海援隊に賠償金7万両(約28億円)を
支払うことで決着がつきました。

しかし賠償が確定した8日後の11月15日。
坂本龍馬が京都河原町の近江屋で何者かに暗殺されました。

坂本龍馬殺害の犯人が平成の今日までわかっていないことは
周知のとおりですが、海援隊の面々は、
犯人は紀州和歌山藩の周旋役・三浦休太郎と思い込み、
復讐の機会をうかがっていました。

この情報を知った紀州候が、
三浦の身辺警護を新選組に依頼してきたのでした。

「三浦は紀州藩には無くてはならない人材である。
今死なせるわけにはゆかぬ。そこで君たち新選組に
三浦の警護を依頼するのである」

出動

不動堂村の屯所に帰った近藤勇は、
幹部たちに依頼の内容を話します。

「俺としては、三浦という男がどうなろうと知ったことではない。
だが三浦が死ねば紀州藩の行く末が危うくなる。
我々は国家のため、彼を助けたいと思うが、どうであろう」

「異議なし」
「異議なし」
「近藤さん、徳川を助けるのが新選組の仕事ですよ」

皆が同意しました。

大石鍬次郎(おおいしくわじろう)、
中村小次郎(なかむらこじろう)、
斎藤一(さいとうはじめ)、
中条常八郎(ちゅうじょうつねはちろう)、
宮川信吉(みやがわのぶきち)、
船津釜太郎(ふなづかまたろう)、
梅戸勝之進(うめどかつのしん)。

以上七名が、
三浦休太郎の宿泊する油小路花屋町(あぶらのこうじはなやちょう)の
天満屋(てんまや)へ向かいます。

天満屋付近
天満屋付近

隊士たちが天満屋に到着すると、

「やあやあ、新選組のみなさん、上がってください」

中二階からきさくに声をかける男がありました。
小太りで、愛嬌のある男でした。
これが、三浦休太郎でした。もう酒を飲んでいました。

中二階には八畳二間あり、奥の部屋に三浦休太郎がいて、
隣の部屋に新選組隊士たちが陣取りました。
大小をそばに置いて、いつ敵が来ても応戦できる構えでした。

一方、土佐藩士側は、

「あの野郎、新選組に護衛を依頼しましたぜ」
「新選組だろうが知ったことか。坂本さんのカタキだ」
「やっちまえ」

ますます殺意を高めていました。
その面々は、海援隊の陸奥宗光、沢村惣之丞、
陸援隊の岩村精一郎、松島和助、中井庄五郎ら十六名でした。

天満屋跡
天満屋跡

襲撃

夕刻。三浦休太郎は奥の間で斉藤一らと共に酒を飲んでいました。
そこへ表から「たのもう」の声がかかります。

何だと思って三浦の家来三宅精一がトントントンと階段を下り、
「はい?」からからからっ。

すると玄関に立っていた武士風の男が

「三浦氏はおられるかな。ならば案内して貰いたい」

「あっ、はいはいはい。今しばらくお待ちを」

三浦の家来は客の馴れた口調に疑いもせず、
ふたたび階段を上がり、障子ごしに、

「三浦さま、ただ今お客人が…」

と言いかけたところ、

ダッダッダッダッダーーーー

駆け上ってきた居合の達人・中井庄五郎が
ぐっと後ろから家来の襟をひっつかみ、どかーーと押しやると、

かぱーーーっ

障子を開け、

正面で酒を飲んでいた三浦までダンッと
一気に間合いをつめて斬り払うと、
あっと驚いた三浦は右の頬をつうっと斬られるも、
ばっと新選組隊士が三浦の体を支えました。

「このっ」「来たか」

隊士一同、跳ね起きて、抜刀。

残る十五名の土佐藩士がどかどかどかーと
階段を駆け上り、狭い中二階はとたんに大混戦の
様相を呈する中、

「三浦さん、こっちです」
「おお、おうおうおう、」

三浦はおどおどしながらも、新選組隊士に護衛されながら、
屋根づたいに逃げていく、その背後では、

斉藤一が二三人を相手に得意の突きで
「きええええ」
どすーーーっ、「ぐはっ」
どすーーーーーっ「ぎゃぁっ」

次々と敵を仕留めていきます。

梅戸勝之進は大力の者に抱き付かれ、どうと倒れ込んだところを、
他の土佐藩士が斬りこんできて、ずばっ。

「ぐはあっ」と重症を負う一方、

若年の中村小次郎は、土佐の侍と
キン、カン、キキーンと刃をまじえているうちに
よろめいて窓からバキバキッと手すりをやぶって、
ざぶーーんと中庭の池に落ちると、

池のほとりでは土佐の侍たち数名が太刀を構え、
中村小次郎の出方を伺う中、
中村小次郎ざばっと池から身を乗り出し、

「なんだてめえら、みせもンじゃねえぞ!!
今上がっていくから、勝負しやがれ!!」

ザバザバザバザバーーーと池から駆け上がり、ひっっひいっと
余りの気迫に押された土佐の侍たちに、キン、カカン、キンキンと
切り結びました。

「かなわぬ。退けっ、退けーーっ」

「無事かーーっ!!」

急をききつけた永倉新八、原田佐之助が到着した時には、
すでに土佐藩士たちは退却した後でした。

この夜の斬りあいで新選組は
宮川信吉が死亡。船津釜太郎が重傷により後日死亡。
斉藤一、中村小次郎、中条常八郎、梅戸勝之進が負傷しました。

土佐藩士側は、中井庄五郎が死亡。
竹中与三郎が片手を切り落とされました。

現在、京都市下京区仏具屋町のマンションの前に
ぽつんと祠が建っています。
これが天満屋の跡です。

新選組に命を救われた三浦休太郎は、維新後貴族院議員となり
東京府知事ともなった三浦安(みうらやすし)です。

慶応三年(1897年)12月7日、天満屋事件。

この事件が、京都における新選組の最後の仕事となりました。

これより2日後の12月9日、王政復古の大号令が発せられ、
徳川の時代は幕をおろしました。

次回「新選組 第43回「都落ち」」お楽しみに。

解説:左大臣光永

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