新選組 第38回「三条制札事件」

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京都 三条橋西詰

第二次長州征伐で幕府が長州に敗れたことは全国に衝撃を与えます。

いよいよ徳川の世も終わりか。幕府の力も
そこまで落ちたかと、人々は改めて実感しました。

その頃、幕府の権威が失墜したことを
象徴するような事件が起こります。

三条大橋
三条大橋

三条制札場
三条制札場

京都三条大橋西詰北側にある制札場(せいさつば)には、
長州を朝敵として訴える札が
三年前から立てかけてありました。
いわく、

長州藩は御所に向かって砲撃した朝敵である。
潜伏している落人を見つけた時はすみやかに町奉行所に申し出よ。
褒美を取らす
もしこれをかくまえば、同じく朝敵であると心得よ。

この札は
元治元年(1864)年7月の「禁門の変」以来、
三年間もこの場所に立てられているものでした。

慶応2年(1866年)8月29日夜。
この札の前にあらわれた7・8人の人影がありました。

「でやっ」

人影は墨でもって制札を黒く塗りつぶすと、
バラーーンと鴨河原にほり投げ、河原まで下りていくと、
バンバンバカンと踏みつけます。

朝になって河原で
メチャクチャになった札が発見されました。

三条河原
三条河原

「幕府の制札が壊されるなんて…なんちゅうこっちゃ」
「やっぱり長州さんの世の中になるんですかなあ…ひそひそ」

9月2日に札を立て替えますが、
翌朝やはり河原に捨ててありました。

新選組 出動

9月10日に新しい札を立てると同時に町奉行所から
新選組へ、制札場の警備と犯人逮捕の依頼がありました。

すみやかに副長助勤原田佐之助、
諸士調役(しょししらべやく)新井忠雄(あらいただお)、
そのほか二番組、六番組、七番組が午後七時頃から
三条大橋を中心に張りこみます。

三条大橋西の酒屋には新井忠雄以下十二名。
三条大橋の東側に大石鍬次郎(おおいしくわじろう)、
茨木司(いばらきつかさ)以下十名。

三条大橋東詰付近 高山彦九郎像のあたり? width=
三条大橋東詰付近 高山彦九郎像のあたり?

三条大橋南の
先斗町(ぽんとちょう)の町屋には原田佐之助以下十名。
 
三条大橋の下には薦をかぶって浮浪者に変装した
浅野薫・橋本皆助の二人が、張り込みます。

三条大橋下
三条大橋下

三条制札事件
三条制札事件

あらわれた敵

子の刻(午後十二時)。

月は中天に輝き、あたりを昼のように照らしていました。
秋風が冷たく吹き抜け、
鴨川の流れはチロチロと響き続けています。

隊士たちは
それぞれの持ち場で息を殺して待機していました。

その時。

月明かりの下、詩を吟じながら歩いて来る
七・八人の人影がありました。

戦闘開始

男たちは鴨川沿いの南のほうから三条大橋へ向けて歩いてきました。
三条大橋にさしかかり、制札場前の柵を越えようとした時、
橋の下で薦をまとって乞食の格好をしていた橋本皆助が

(来た来た…原田さんたちに報告だ…)

タタッと駆け出します。

もう一人橋の下で薦をかぶって斥候役をしていた
浅野薫は、

(ううう殺される。やばい、やばい…)

縮こまって、橋の東の大石鍬次郎らへの報告が遅くなってしまいます。

浅野薫は新選組に入隊したばかりで、まだ実戦経験が
なく、度胸が座っていなかったようです。

橋本皆助はまず酒屋で張り込んでいた
新井忠雄に合図すると、今度は引き返して、
原田左之助に報告しようと先斗町へ向かう途中、

「あっ、原田さん!」
「おお、橋本くん」

原田佐之助はすでに異常を察知し、十二名を率いて
先斗町から駆けつけていたところでした。

原田らが物陰に身をひそめて
三条大橋たもとの制札場を見守っていると、
八人の男たちは札の前でびたりと立ち止り、

いっせいに抜刀。

「でやっ」「きえっ」「とあっ」

カラン、カラン、バラーン

札を斬り捨てた、その背後から

「新選組 原田佐之助 まいる!!」

「なにっ!」

キーーーン、

敵は、とっさに抜いた刃で原田の攻撃を受け止めますが、
他の新選組隊士たちも次々と抜刀。

「新選組だ。神妙にいたせ」

「ひっ。新選組」
「ひるむな。新選組がなんぼのもんじゃ」

チャリン、チャリン、チャリーーン

深夜の三条大橋西詰の、そこかしこで白刃の光がきらめきます。

敵はいずれも土佐藩士。藤崎吉五郎、松島和助、
宮川助五郎、沢田甚兵衛、安藤謙治、岡山禎六、早川安太郎、
中山謙太郎の八名でした。

キン、カカン、キン

追撃

「くぬう。多勢に無勢ではかなわぬ。撤退。
撤退ーーー」

八人はかなわじと見て三条大橋西側へ向けて逃げようとすると、
酒屋に張り込んでいた新井忠雄率いる十二人が
遅れて駆けつけ、

「抜けーーー!!」

一列横隊に並んでいっせいに抜刀。

道をふさいだ状態で押し寄せ、

キン、カン、キーーーン

三条制札事件
三条制札事件

この時、新井忠雄は酒を大量に飲んで泥酔していましたが、
その体のほてりも闘争本能に変え、斬りかかります。

ズバァ、ぎゃあ
スパーーン、ひいい

「に、逃げろーーっ」
「待てい」

土佐藩士たちは細い高瀬通に逃げ込み、ひっ、ひいい、
たすけてくれえと必死に逃げていく後ろから原田左之助が
先頭となってこれを追い、ついに三条南車道に到ってここは
地面のでこぼこが激しく、逃げる方も、追う方も、困難を極めますがしかし、
原田はついに土佐藩士藤崎吉五郎を追い詰め、ズバァ。ぎゃああ。ばったと
斬り伏せる一方、

原田の部下・伊東浪之助は土佐藩士早川安太郎と
斬りあいになり、

キン、カン、カカン、ガッ…

「ぐはっ!!」

早川安太郎が格別力をこめて斬りこんだその太刀を
伊東は受け損ねて刀の柄に当たり、鮫皮をやや削り取って
カーーーンと刀を跳ね飛ばされました。

新井忠雄は泥酔しながらも土佐藩士宮川助五郎を切り伏せた所、
駆けつけた同志・今井祐太郎が討ち取ろうとするのを、待てと
おしとどめ、縄でしばって生け捕りにする一方、

新人の新選組隊士橋本皆助は安藤謙治を討ち取り、
残る土佐藩士たちは全身あちこちに傷を負い、
鴨川河原に飛び降りて
ひっ、ひいいいーーー、と必死の態で、
北に南に逃げ去りました。

慶応2年(1866年)9月10日夜の三条制札事件。

これ以後、幕府の制札を壊す者はなくなりました。

次回「新選組 第39回「伊東甲子太郎の脱退」」お楽しみに。

本日も左大臣光永がお話しました。
ありがとうございます。

解説:左大臣光永

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