西本願寺

こんにちは。左大臣光永です。
じょじょに肌寒くなってきましたがいかがお過ごしでしょうか。
私はこの一か月、『論語』の訳を製作していました。
昨日、ようやく完成しました。いやあ頑張った…。

近く中国語朗読つきで発売予定です。しかも全500章以上を
原文・現代語訳・中国語で朗読するという、日本ではじめての
たぶん、日本ではじめの企画です。お楽しみに。

さて本日は、新選組の第36回「西本願寺」です。

壬生を離れる

慶応元年(1865年)四月。

新選組は壬生の屯所を引き払い、西本願寺の
北集会所(きたしゅうえじょ)を新しい屯所と定め、
引っ越します。

「八木さん、長い間ありがとうございました。
こら、お前たちも八木さんにお礼を言わんか」

「八木さん、お世話になりました」
「おさわがせしました」
「また遊びにきます」

「まあとにかく、あまり無茶をなさらんようにな。
皆さん若いんやから…
命だけは大切にせな、あきまへんで」

文久3年(1863年)年2月に京都に来てからというもの、
丸2年間を過ごした壬生を離れるのです。

さまざまな感慨もかけめぐったことでしょう。

(ようやく静かになる…)

宿の主人・八木源之丞としては、ほっとする一方で、
あの荒くれ者たちがいなくなることに
一抹の寂しさもありました。

新選組隊士たちは八木源之丞の目には、けして
世間で言われているような血に飢えた無法者の集団ではありませんでした。
普段はごく素朴な若者たちでした。

中にも沖田総司や山南敬助などは、よく息子の為三郎と
遊んでくれました。

あの素朴で感じのいい若者たちが
人を斬るなんて…

宿の主人八木源之丞にとっては
今だに信じられない感じがしていました。

とはいえ、芹沢鴨の暗殺をはじめ数々の血なまぐさい
事件を目の当たりにしたことであり、もう
こりごりというのも正直な所だったでしょう。

北集会所

西本願寺の北集会所(きたしゅうえじょ)は
全国の僧侶が集まった時に宿泊したり、
大規模な説教をする施設で、ふだんは使っていなかったので、
新選組がこの施設を貰い受けました。

三百畳敷きの広々とした建物の内部を、
大工に細かく仕切らせて、部屋を作りました。

本堂との間には青竹の矢来を結んで
勝手に入ってこれないようにして、
湯殿や牢屋、首斬りの土壇場まで設けました。
入り口には

「新選組本陣」

と、でかでかと看板を掲げます。

西本願寺を新しい屯所に選んだのは人数が増えて
壬生の屯所では手狭になってきたほかにも、理由がありました。

かねてから西本願寺は長州と気脈を通じていました。
先年の禁門の変の時は長州人を軒下にかくまっており、
そこを土方歳三に目をつけられたのでした。

「あの時、本願寺は本来ならば焼き払うべきところ、
見逃してやったのだ。よもやその恩義、忘れてはおるまいな。
焼き払われたと思えば、
屯所として使わせるくらい、何ということもあるまい」

「そ…それは…しかし…」

「異論があるか!」

「ひいいっ…」

こんな感じで、強引に決めてしまったようです。

大砲の調練

境内の大広場を練兵所とし、ここに会津公より貰い受けた
大砲二門を設置します。

調練指南役は武田観柳斎。
長沼流の兵法にのっとった指南をしました。

「撃てーーーッ」

ドカーーン。ドカン。ドカーーン。

「ひ、ひいいい!!」

もちろん空砲ですが、耳をつんざく響きはたいへんなものです。
しかもお経を上げているところに、仏さんに心をこめて祈っているところに
ドカン、ドドンと、連続して響くのです。

「ひ、ひいいい」

本願寺の門主は心をこめて仏に祈っていた所、ドカンドカンの
強烈な音で極楽の瞑想はたちまち破られ、布団の中にもぐりこんで
ガタガタ、ガタガタふるえながら、人を呼んで、

「大砲を撃つならば、事前に言ってもらわねば困る!」

そう言って新選組と交渉させますが、

「門主が怖がってるてよ」
「よっしゃ、もっと怖がらせてやろうぜ」

ドカン、ドドーーン

隊士たちは面白がってさらに空砲を撃ちまくりました。
時々はあまりの轟音に屋根瓦がガラガラと崩れ落ちてくる始末。

門主以下、僧侶たちはただただ、頭をかかえます。

「どうしてあんな荒くれ者共を入れたのだ!」
「壬生に帰ってもらいましょう!」
「そうは言っても…理屈が通じる相手ではなし。困った困った」

猪鍋問題

さらに困った問題がありました。

近隣の山から物売りの女たちが下りて来て、
隊士たちを相手に商売をするのでした。

「猪(しし)いらんかえ~丸々肥えた猪やで~。うまいでえ~」

「おお、こっちじゃこっちじゃ。ほほお、今日の肉はまた
一段と肥えとるのお」

「鍋にして食うたら最高やで」

「おい、沖田、酒あったか酒。おう、癇にしてな」

などとワイワイいいつつ、隊士たちはめいめい
好きなだけ買い求めると、
部屋に鍋を持ち込んで、グツグツ煮て、食べるのでした。

仮にも寺の門内でです。

僧侶たちが読経を上げていると、
ぷうん…とおいしそうな猪鍋のニオイが漂ってくる。

さすがに集中力を乱されますね。

「ぐぬぬ…これでは読経にならん!!」

むしろこっちのほうが、大砲よりも大問題でした。

会津公へ苦情

ついにたまりかねた西本願寺門主(もんしゅ)から、
会津公松平容保の屯所に苦情が入ります。

「なに、寺の境内で大砲を…。それに猪鍋?」
「とんでもない連中です。なんとか言ってください」
「ううむ…いつもいつも困った連中じゃわい」

などとおっしゃりつつ、松平容保候は
近藤勇を召し出します。

「御所にほど近いところで大砲は穏やかでない。
それと、猪鍋は少しひかえるように」

「は…はあ…」

さすがの近藤も、大恩ある会津公にしかられると
反論できず、以後、境内での調練は取りやめになりました。

そのかわり、月に二回、壬生寺まで大砲を引っ張って行って、
こっちでドカンドカンやるのでした。

現在、西本願寺の境内に北集会所の建物は残ってません。
しかし北集会所の東に位置していた太鼓楼の跡が残っており
往時をしのばせます。

西本願寺 太鼓楼
西本願寺 太鼓楼

その頃長州では

高杉晋作らのクーデターによって幕府恭順派が倒され、
ふたたび、「打倒幕府」の気運が高まっていました。

これを重く見た幕府は長州藩主毛利敬親父子と
大宰府にいた三条実朝らを江戸へ召し出し
問いただそうとしますが、
すでに長州藩内は討幕の空気一色であり、
応じる気配もありませんでした。

「おのれ長州め。今度こそ叩き潰してくれる」

こうして二度目の征討軍が長州へ派遣されることとなります。

今回は将軍徳川家茂みずから馬上の人となって
全軍の指揮を取ることとなりました。

慶応元年(1865年)閏5月22日。

家茂一行は
京都に入り、24日大阪城に入ります。

新選組からも谷三十郎以下、20名ばかりが
征討軍に加わるため大阪に入ります。

次回「第二次長州征伐」お楽しみに。

本日も左大臣光永がお話しました。
ありがとうございます。

本日も左大臣光永がお話しました。
ありがとうございます。

解説:左大臣光永