新選組 第31回「伊東甲子太郎の入隊」

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元治元年(1864年)秋。

近藤勇は京都を離れ、江戸へ下向しました。

目的は二つ。

一つは将軍家茂へ一刻も早い上洛をうながすこと。
禁門の変では長州によって内裏が攻撃され、孝明天皇の御身も
よもや危ないという状況でした。

こんな大変な時なのに、江戸の将軍さまはどうして
帝にご機嫌うかがいに来ないんだと、京都では
不満がたぎっていたのでした。

そしてもう一つの目的は、
池田屋事件で隊士が減ったため、隊士の募集をするためでした。

さて深川佐賀町(ふかがわさがまち)に伊東大蔵なる男が
北辰一刀流の道場を開いていました。

常陸志筑(しずく)藩脱藩で、
はじめ鈴木大蔵(おおくら)といいました。

実弟三樹三郎とともに江戸に出て
北辰一刀流の道場に入りましたが、
師匠の伊東精一が病死したため、
門弟一同の推挙により伊東の姓を継いだのでした。

涼しい目をした美男子です。

武芸だけでなく学問(国学)にも通じ、
和歌をたしなむ風流人でもありました。

武田耕雲斎の下で水戸学を学んだため
過激な勤王主義者であり倒幕論者でした。

しかし物腰はおだやかで、
いかにも教養人の風がありました。

藤堂、伊東を新選組に誘う

新選組隊士の中に藤堂平助は北辰一刀流なので、
かねてから伊東と交流がありました。

今回の近藤勇の江戸下向にさきがけて、
藤堂平助は一歩先に江戸に下り、伊東の道場を訪ねます。

「いやあ藤堂くん、久しぶりじゃないか。
急にびっくりした」

「みすません伊東さん。いかがですか江戸の様子は」

「こっちは相変わらずだよ。かわったとえば藤堂くん、
君のほうだろう。京都でのご活躍、聞き及んでいるよ。
池田屋では、大変なお手柄だったとか」

「いや私なんかは別段の働きは…まいったな どこへ行っても池田屋の話だ」

などと世間話から入り、ズバリ藤堂は斬りこみます。

「時に伊東さん。どうでしょう。伊東さんも新選組に加わりませんか」

「えっ。私がかい。しかし…
新選組は幕府の機関じゃないか。
私の立場とは、少しずれる気がするのだが」

「多少の考え方の違いはあって当然です。
新選組だっていろいろな考えをもった人間がいます。
伊東さんは攘夷がやりたいんですか?」

「……」

藤堂は、ぜひとも伊東を近藤に引き合わせたい。
文武両道の伊東が新選組に来てくれれば、
これほど心強いことは無いと思っていました。

伊東、市ヶ谷に近藤を尋ねる

それで、再三藤堂は伊東を口説き、
ついに近藤との面会を約束させます。

その日、

伊東は市ヶ谷の試衛館道場に近藤勇を訪ねました。

「藤堂くんから話は聞いている。君が伊東くんか」

「伊東大蔵です。近藤さん、始めにおききします。
新選組の尊王攘夷は、ただ理屈の上ではない、
真の尊王攘夷ですよね」

つまり、伊東が言うのは、行動をともなった、
過激な尊王攘夷ということです。

天皇を崇拝し、神国日本を守るために外国人を殺害する。
テロも辞さない、過激で、極端な、原理主義的尊王攘夷。

それが、伊東の言う尊王攘夷でした。

「……」

一瞬返事につまる近藤。

もちろん新選組も、近藤個人も、
尊王攘夷を旗印としてはいました。

しかし、長く幕府のために
働いているうちに近藤の心に変化が生じていました。

多摩の百姓にすぎなかった自分たちが
武士に取り立てられたのはひとえに会津候、
そして幕府の御恩ではないのか。

尊王だ、攘夷だというややこしい話ではなく、
ただ、徳川に尽くす。
それで、いいのではないか。

そして幕府はこの頃完全に開国論に傾いている。
攘夷を行う気配も無い。
ならば幕府を助ける立場にある我々が
攘夷を行うのはおかしいのではないかと……。

しかし一方でまだ近藤は攘夷を行うことに
未練も残っており、
また新選組の旗印は表向きは尊王攘夷でした。

また個人的にも、この有望な若者が
ほしいという気もありました。

無学の者が多い新選組にあって、
伊東のような教養人が入ってくれれば、
よい刺激になってくれるはずと。

しかし…

過激な原理主義者ともいうべき伊東が、
もし何か面倒をやらかしたら…
という躊躇もありました。

一瞬の間にいろいろ迷った末、近藤は答えます。

「むろん、新選組が目指すのは真の尊王攘夷である」

「ならば、募集に応じます」

伊東は自分が入隊するだけでなく、
弟の三樹三郎、道場師範代内海次郎、中西昇、
同志の篠原泰之進(しのはらたいのしん)、
加納鷲尾、佐野七五三之助(さのしめのすけ)、
服部武雄の7名をも近藤に紹介し、入隊させます。

伊東は深川佐賀町の道場を畳み、
家族を三田台町(みただいまち)にうつし、11月14日、江戸を出発します。

新たな門出を祝うように、空は晴れ渡っていました。
伊東は新しい世界に踏み出すことに、胸躍っていました。

さて、この年元治元年(1864年)の干支は、
甲子(きのえね)です。

甲子の年は干支の組み合わせが一巡して
60年ぶりに干支の一番最初に戻る年であり、
世の中に大きな動きがあるとされています。

「今年は甲子…まさにわが門出にふさわしい。
以後、私は伊東甲子太郎と名乗ることにする」

そして籠にも乗らず、仲間たちと共に
東海道五十三次をぶらぶらと歩き、
宿場宿場に泊まりを重ね、12月1日、京都に入ります。

次回「新選組 第32回「伊東甲子太郎と新たなる部隊編成」」です。お楽しみに。

本日も左大臣光永がお話いたしました。
ありがとうございます。

解説:左大臣光永

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