近藤勇 江戸へ下向する

こんにちは。左大臣光永です。だいぶ暑くなってきましたが、いかがお過ごしでしょうか?
本日は「近藤勇 江戸へ下向する」です。

将軍家茂 上洛せず

禁門の変で長州は御所に発砲し、京都の町が炎に包まれました。それまでは朝廷内でさえ長州に同情的な声もありましたが、ここに至り、反長州の声が一気に高まります。

「長州討つべし!」
「長州討つべし!」
「主上、御勅許を」

「うむ。大砲をもって禁裏を脅かすとは言語道断。このような暴挙、許されるはずもない。幕府はすぐさま長州を討伐せよ」

元治元年(1864年)7月24日。孝明天皇から長州討伐の勅許が下されます。これで長州は完全に、朝敵になりました。

すぐさま将軍徳川家茂に、長州を討伐せよと使いが走ります。それでなくても長州は形式上は幕府の配下にあるわけですから、その長州が朝廷を脅かしたということは、言わば幕府が朝廷を脅かしたも同じことです。幕府としてはすぐにも将軍みずから上洛し、孝明天皇にご機嫌うかがいをすべきところです。

しかし家茂はいつまで経ってもさっぱり上洛しませんでした。8月9月が過ぎて10月に入ります。将軍さまはどういうおつもりなんだ?さあなあ…何も考えてないんじゃないの?そんなふうに巷では将軍家の非を鳴らす声も高まってきました。会津候松平容保は、ジリジリ焦ってきました。

「ええ将軍家はどういうおつもりなのじゃ。もう三月も経つというのに!」

新選組でも危機感をつのらせていました。近藤勇は、局長助勤以下、主要幹部を集めて語ります。

「このまま待っていても埒が明かぬ。この上は御老中に直接訴えて、将軍さまにご上洛を促してもらうしかない。俺は江戸に下ろうと思う」

「近藤さん、ならば私も」

「私も」

こうして近藤勇、永倉新八、尾形俊太郎、武田観柳斎の4名が江戸に下ることとなりました。それを聴いて会津候もいたくお喜びになり、それはよい。すぐに出発いたせとのお言葉。

新選組 東海道を行く

四名はその日のうちに籠に乗り込み、桑名まで行き、伊勢湾を舟に乗ってわたります。

途中暴風雨にあうも、なんとか熱田にたどり着き、ふたたび籠に乗って東海道をひた走ります。箱根の関所では、籠から降りもせず

「京都新選組 近藤勇。公用にてまかり通る!」

籠に乗ったまま名乗りを上げて走り通ると、後に続く三人も、

「同じく 永倉新八」
「同じく 尾形俊太郎」
「同じく 武田観柳斎、まかり通る」

次々と名乗りながら走り通ります。

なっ、待てっ。こら待てというに!!

ワアワア言う役人たちの声も後に置き去りにして、一路、東海道を江戸へ向けてひた走ります。

江戸城で出会った人物

京都を発って三日目に江戸に入り、市ヶ谷の近藤勇の道場に落ち着きます。

「ひゃあ、久しぶりだなあ試衛館も」
声を上げる永倉新八。

「風呂にでも入って、今夜はゆっくり休んでくれ…」
長旅をねぎらう近藤勇。

翌日。

近藤勇は永倉、尾形、武田三名を従えて江戸城和田倉門(わだくらもん)内の会津藩留守邸へ赴きます。江戸下向の用件をつげ、老中への拝謁の手続きなどをして外に出たところ、意外な男と顔をあわせます。

「近藤殿。近藤殿ではござらぬか」
「あ…ややっ、西郷殿」

薩摩の、西郷隆盛でした。

「蛤御門の時はお世話になり申した」

「いえ、私などは別段の働きもありません。
それで、西郷殿は、どのような御用向きで?」

「拙者は大目付肥前守殿にご面会いたし、
大樹公にご上洛をおすすめしようという次第で」

「なんと。私も同じ目的です。今、御老中の松前伊豆守殿に
お願い申し上げるようとしていた所です」

「左様ですか。新選組の近藤勇殿がお味方とは、
こがん心強かことはなかです」

などと話し、別れました。

西郷に言った通り、すぐに近藤は老中・松前伊豆守に面会を求めます。ところで永倉新八は松前藩脱藩なので、

「拙者は脱藩の身です。松前候にお目にかかれる立場でもござらぬ。差し控えましょう」

ということで、近藤勇、尾形、武田の三人で松前藩邸を訪れました。近藤は松前伊豆守に切々と訴えます。

近藤の訴えむなしく

「大樹公には、なにとぞ一刻も早くのご上洛を。
せめてご機嫌伺いだけでもいただけるようご尽力くだされ」

なにしろ御所が、砲撃されたのです。天皇の御命があやうかったのです。こんな大変な時に、江戸の将軍さまは何をされているんだ!いつになったら天子さまにご機嫌を伺いに来られるんだ。ええい、やはり幕府などあてにならん。朝廷は幕府と手を切るべきだ。…そんな論調が、強くなっていました。

先年、将軍家茂と孝明天皇の妹和宮との婚姻がなり、「公武合体」…幕府と朝廷が手を結ぶという流れができていたのに、これでは両者の関係が決裂してしまいます。なんとしても朝廷と幕府が決裂するようなことは避けねばなりませんでした。

しかし、江戸にいる幕府の要人たちは、すっかり平和ボケしており、京都や大阪の空気を実感として理解できずにいました。

「なにしろ上様ご上洛とあらば、お供の者たちへの手当の問題もある。
なかなかこれが大変であるのでのう…」

近藤勇はガックリします。ようは、金が無いということでした。何という危機感の無さ。やる気の無さ。情けなく、また哀れにも思い、近藤は言いました。

「金子などは問題ではござらぬでしょう。上さまご単身にてご上洛とあらば、
志ある者ならば手当など出ずともお共申し上げるはずです」

「ほ、ほうほう、上様ご単身にてのう。
や、たしかに、それは、そのほうの言う通りやもしれぬ。
まあ、今一度かけあっておこう」

ということでその場はお開きになりました。ほんとうにかけあってくれるのか、わかったものではありませんでした。なかなか近藤の思うようにはならず、ようやく将軍家茂の上洛が実現したのは翌年の慶応元年(1865年)閏5月のことでした。

さて近藤勇が江戸に下ってきたのは、将軍上洛を促すためと、もう一つ目的がありました。

隊士の募集です。

先年の池田屋事件で隊士が討たれ、一時は80名を超えていた新選組も40名を切るようになってきました。

募集をかけたところ、池田屋事件で新選組の名が上がっていたこともあり、すぐに50名の応募者がありました。

その中に、後日新選組内部にたいへんな波乱を巻き起こすことになる、一人の問題児の姿があったのですが…

次回「伊東甲子太郎 入隊」です。お楽しみに。

本日も左大臣光永がお話しました。ありがとうございます。ありがとうございました。

いただいたお便りより

左大臣様

「元二の安西に使するを送る」を送って頂きありがとうございました。
一年ほど前から、詩吟をすこしばかりやりはじめました。きっかけになったのは
この詩でした。 シルクロードを旅することがあって、陽関の関を訪れたときこれを詠じた
方がいました。 漢詩や詩吟に一層の興味が出てきたのです。
ですからとても懐かしかったです。
素晴らしい朗読と解説をありがとうございました。

…こちらこそ、ありがとうございます。元二の安西に使いするを送る…
君にすすむさらに尽くせ一杯の酒。あれを、シルクロードで、
朗々と吟じた…すばらしいですね。声もよく響きそうです。
私も旅先では必ず屋外で大声を上げるようにしているんですが、
シルクロードで…というのも、ぜひやってみたいですね。

解説:左大臣光永