明保野亭事件

明保野亭 討ち入り

京都焼き討ちの陰謀は防げたものの、池田屋事件は新選組にとっても大きな痛手となりました。もともと40名しかいなかった隊士のうち、3名が討たれてしまい、いまやわずか37名。

「これでは市中見回りなど、おぼつきません。それに長州の残党も潜んでいることでしょう」

「相わかった。会津より応援を派遣しよう」

近藤勇の訴えを受けて、会津候松平容保は柴司はじめ10名の応援を派遣します。

壬生の屯所についた会津藩士たちは、荷物を下ろすとすぐに最初の仕事に駆り出されます。

「東山の茶屋・明暮野屋に、長州人数名が潜伏しているとの情報が入った。行って、事の真偽をたしかめ、たしかなら捕縛してきてくれ」

明保野亭
明保野亭

指令を受けて、武田観柳、沖田総司、原田左之助ら新選組隊士15名と、応援の会津藩士5名計15名が東山の茶屋・明保野亭に向かいます。

いつものように宿の表と裏に人を立たせておいて、「御用改めである。神妙にしろ」ドカドカドガトーと踏み込んでいくと、なんや、なんのさわぎや、

座敷には数名の男が飲み食いしていましたが、キョトンとして、どこにも血なまぐさい感じはありませんでした。槍も鉄砲も見つからず、ただ平和に飲み食いしているという感じでした。

その時、座敷から一人の男がタッタッタタタターーと駆け出しました。「あっ、こらっ」会津藩士柴司は、これを長州の浪士と見て、追いかけていき、庭に駆け出すと、

手槍をもって後ろからドスーーと突くと男は、やめろ。俺は長州人じゃない。なに。長州人じゃない?拙者はれっきとした土佐藩士麻田時太郎と申す者。何土佐藩士!では何で逃げたのだ!巻き込まれると面倒と思ったのだ。あいたたた…無茶をしやがる。

土佐藩士麻田時太郎は腰を押えながら、土佐藩の定宿である方広寺大仏殿そばの旅館に引き返していきました。

永倉 柴をはげます

新選組と会津の応援組も壬生の屯所に引き上げますが、土佐藩士に槍を打ち込んだ柴司は、ずっとうかない顔をしていました。

見かねた永倉新八が話しかけると、柴司は事情を話します。これこれのわけで土佐藩士をあやまって斬りかけてしまった。大事にならないでしょうかと。

永倉は明るく言います。

「ご心配なさるな。国のための仕事であるから、時に悪人を斬ることは、これは仕方が無い。そもそも土佐藩の人間なら、逃げる必要も無かったのだ。逃げたほうが悪い。何も貴君が心配することはない」

「そ、そうでしょうか…」

しかし柴司は相当気に病んでいる様子でした。柴司この年わずかに21歳。永倉新八26歳。永倉は弟を見るような気持ちで、柴司のことを近藤に話します。

「…相当心配してるなありゃあ。見ていて、気の毒になってくるよ」

などと話している所へ、柴司の兄、秀司のもとより、すぐに館に戻るようにと使いが来たので、司はますます表情を曇らせて兄秀司の家に戻ってきます。

土佐・会津の外交問題に

その頃、会津藩では騒ぎになっていました。とにかく、土佐藩士を傷つけたのはまずかった。見舞いの使者を送ろうということになり、藩の重役が藩医を伴って土佐藩邸を訪ねていきますが、

「お心遣いはかたじけないが、背中を見せて逃げ出した上、立ち合いもせずに斬られて帰ったは武士にあるまじきこと。そのような者に治療など不要である」

そう言って、つっぱねられてしまいました。帰り道、会津藩の重役たちは言い合いました。「ありゃあ切腹させられるなァ…」「これで会津と土佐の関係がどうこうってことにならなきゃいいんだが…」

会津藩主松平容保と、土佐藩主山容堂公は懇意の間柄でした。今回の事件で両者の間に亀裂が走ったら…誰もがゾッとせずにいられませんでした。

大方の予想通り、当の麻田時太郎は、切腹させられました。

会津藩邸にもどった重役たちは、頭をかかえて話し合います。

「まずいですなあ。藩同志の話になってくると」

「まして長州人も巻き返しをはかっているのです。ここで付け込まれたら、大変ですぞ」

弟を介錯する

ああ…ううむと、一同うなるばかりで、何の解決策も見つかりませんでした。それを知った柴司の兄・秀司が、弟に事の次第を告げます。

「というわけだ。会津藩のお歴歴は、会津と土佐の関係がくずれることを恐れている。事は外交問題なのだ。まして向こうはすでに切腹したという。お前に腹を切ってもらうほか、無いようだ」

「わかりました。私一人の過ちで土佐と会津が断絶するなど、とんでもないことです」

そこで柴司を沐浴させ、兄の秀司が髪を結ってやり、死装束にあらたると、静かに設けの座につきます。

酌み交わすと柴司は別れの盃を、親類縁者一同と酌み交わすと、ざっと一同をながめ、「さらばでござる」ぶすっ…。ズバ…ゴトン。介錯は涙ながらに兄がつとめました。

柴の葬儀には新選組からも永倉新八らも参加し、その死を惜しみました。墓は墓は黒谷の金戒光明寺にあります。

会津の柴司と、土佐の麻田時太郎、双方が切腹したことにより、会津藩と土佐藩の衝突は避けられました。

次回「禁門の変(一)」です。お楽しみに。

解説:左大臣光永