新選組 第17回「八月十八日の政変」

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芹沢鴨がほうぼうで酒を飲んで暴れまくっている間に、世情は大きく動いていました。

孝明天皇の大和行幸

文久3年(1863年)8月。

孝明天皇の大和行幸が計画されていました。大和の神武天皇陵と春日大社に参詣し、そのまま伊勢神宮にも参宮する予定でした。

「この時期、まだ大和は暑かろうのう…。皇室の祖たる 神武帝の陵に参詣するはまことに意義深きことなれど、なにもこの時期に…」

さて、今回の大和行幸に際し、尊王攘夷派、特に長州藩には狙いがありました。孝明天皇が大和へ行幸するに際、そのままお輿をうばって長州までお迎えしようというものです。

ガーーッと、お輿ごと、カッさらっていこうとう話です。錦の御旗さえ長州にあれば、長州は官軍として、堂々と、幕府を倒せるわけです。そして攘夷を行うつもりでした。外国人を殺しまることを、しようとしていました。

しかし、長州の計画を見抜いていた人物がありました。

中川宮の奏上

「畏れながら、主上に奏上したき義がございます」

文久3年(1683年)8月17日。中川宮尊融(なかがわのみやたかあきら)親王は御所に参内し、孝明天皇への直接面会を求めました。

中川宮は剃髪して興福寺一乗院に入られ法親王となられた方ですが、日米修好通商条約の勅許に反対したたことと、将軍・徳川家定の後継者として一橋慶喜を支持したことから大老井伊直弼に目をつけられ、安政の大獄で「永蟄居」、つまりずーーっとひきこもっておれと命じられていました。

しかし井伊直弼が桜田門外の変で斬られた後は許され、政界に復帰していました。その、中川宮が、孝明天皇に直接、奏上します。

「こたびの大和行幸は、中止なさってください。なんとなれば、長州の奸賊どもが、行幸に際しお輿を奪い奉って、乱を起こそうと企んでおります」

「なんと…!!そのような企みであったのか。道理で…話が急すぎると思ったわ」

孝明天皇は熱心な攘夷主義者です。外国人は打ち払えという考えです。それはそうなのですが、攘夷はあくまでも幕府を中心に行うべきという考えでした。長州のように「天誅」と称して人を殺しまくり、幕府を倒せとまで言うことにはまったく反対の立場でした。

長州の追放

翌8月18日未明。

中川宮をはじめとする公武合体派の公卿が参内し、九つの門が閉じられ、長州人がいない中、朝議が行われます。未明から呼び出されて眠そうな目をしていた公卿たちは、話をきいて驚きます。

「では長州を、完全に追い出すのですか!」

「そこまでやっては、長州を刺激しすぎるのでありませんか?」

「なんの、やるなら徹底してやるべきです」

結局、長州を追い出す方向で話がまとまりました。

それまで長州に任じてきた御所の南側、堺町門(さかいまちもん)の警護の任を解き、長州系の公卿の参内を禁止し、長州藩主・毛利敬親(もうりたかちか)にただちに京都退去を命じることになりました。

そして孝明天皇からほうぼうに宣旨を下します。

「今回の大和行幸は、逆臣にそそのかされたもので、朕の真意ではなかった」

朝、三条実美ら尊皇攘夷派の公卿たちが参内すると、すでに御所の周りは薩摩・会津の兵士たちがびっしりと固めていました。

「どうなっているのじゃ。いったい何がどうなっている!」

「けして通すなと申し受けております」

「なんじゃとおー」

一方、長州の兵士たちは連絡を受けて堺町門に押し寄せますが、しかし、自分たちの持ち場であるはずの堺町門は、すでに薩摩・会津の兵士たちが固めていました。

「なんじゃこりゃあ。いったい、なんのまねじゃあ。どけーーッ」

「どかぬ!!」

双方、大砲を構え、小銃を構え、にらみ合いとなります。

壬生浪士組 出動

その頃、壬生村の浪士組屯所に、バカカッ、バカカッ、バカカッ、ひひーーん。早馬の使者が到着していました

「局長の芹沢鴨殿はおられるかーーッ」

「はあ、私が芹沢ですが?」

「拙者は会津候公用方(こうようかた)・野村佐兵衛(のむらさへい)と申す。壬生浪士組はただちに甲冑弓箭を整え、御所の警護に向かわれよ」

「御所の!いったい、何事ですか」

「長州藩の京都引き上げに際し、ひと悶着起きそうなのだ。早く準備をいたせ!」

すわ一大事と、近藤勇、芹沢鴨は手早く具足に身を固め、烏帽子をかぶり、隊士80名を二列にして、赤地大きく白い字で「誠」と入った旗をかざして、御所に向かいます。

そこで彼らが目にしたものとは!

次回「新選組 第18回「七卿落ち」」に続きます。お楽しみに。

いただいたお便りより

拝啓 左大臣様 

この度は、初めて、貴殿のHP「漢詩の朗読」にて、素晴らしい朗読だけでなく、詳しい解説もしてくださり、篤く感謝申し上げます。

また、本日は、白楽天の「長恨歌」を態々ご案内くださり、ありがたいです。

古来文字を持たなかった日本の古代、中国渡来の漢詩・漢文の習得が支配者層の必須の学問とされ、古文や現日本語のルーツにもなるのです。

初唐、若死にした天才、劉希夷の『代悲白頭翁』に登場する「年々歳々花は相似たれども、人は年取って昔と同じではないよ」の一節が頭に焼き付いております。

自分は、いつまでも頭脳を鍛え続け、年々進化を続ける存在でありたいと願っております。いつまでもお元気でご活躍くださいね。

…ありがとうございます。このようにいただきました。お互いに、がんばりましょう!脳を、体を、鍛えていきましょう。

本日も左大臣光永がお届けいたしました。ありがとうございます。

解説:左大臣光永

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