毛利輝元(十一)関ヶ原

こんにちは。左大臣光永です。大きな駅とか空港に「動く歩道」ってあるじゃないですか。自動で運んでくれるやつ。あれ、びゃんびゃん進むから楽しいんですが、さらに楽しいことに、最終地点。ここで動く歩道が終わって、一般の通路に出るって時に、加速がついてるから、ぺーっと吐き出される感じが、好きです。なんか巨大なアナコンダとかが人間を飲み込んで、ぺーーっと吐き出してる感じ。味わい深いです。

さて。

本日は「毛利輝元(十一)関ヶ原」です。

↓↓↓音声が再生されます↓↓

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前回までの話
http://history.kaisetsuvoice.com/cat_Sengoku.html#Terumoto

伏見城攻め

天下分け目の関ヶ原合戦。

その前哨戦となったのが、慶長5年(1600)7月の伏見城の戦いです。

慶長5年(1600)7月18日、毛利輝元の名で東軍方・伏見城に開城要求がつきつけられます。

「そのような要求には従えない」

城主・鳥居元忠は即座にこれを拒否。

翌19日、伏見城への攻撃が始まります。

西軍方は宇喜多秀家を総大将に、小早川秀秋を副大将に、島津義弘、吉川広家、毛利秀元、小西行長、鍋島勝茂、長曾我部盛親ら総勢四万。

一方、伏見城に立てこもるのは城主・鳥居元忠以下のわずか1800。

力の差は歴然としていました。

しかし、鳥居元忠の抵抗思いのほかに激しく、伏見城は何日かかっても落ちないです。

まず覚悟が違いました。

鳥居元忠は徳川家康の今川家人質時代からの忠臣であり、今回の戦いに決死の覚悟で臨んでいました。

家康は会津へ向かう途中、伏見城に立ち寄り、鳥居元忠らを激励しました。

「三成と戦になれば、伏見城は敵中に孤立する形となる。
だが会津攻めの最中、伏見城にこれ以上の兵力を割くことはできぬ
鉛弾が尽きたら、金銀をいぶしてでも弾にせよ
一日でも長く、三成の攻撃を食い止めよ」

つまり、時間かせぎのために捨て石になれと。

ふつうなら逃げ出す所ですが、鳥居元忠のふだんからの徳川家康への忠勤ぶりを見ていた家来たちは、ここぞと死を覚悟しました。対して西軍は三成につくのか、どうしようか、迷っている者が多かったです。様子見をして、まともに戦わないといったありさまでした。

「ええい、何を手こずっているのか」

7月29日。シビレを切らした石田三成が自ら出馬。伏見城に激しい攻撃を加えます。

8月1日。

13日間の攻防戦の末にようやく伏見城は落ちます。

城主・鳥居元忠は自刃。

元忠配下の諸将も次々と自刃。伏見城の畳は血に染まりました。

(関ヶ原で勝利した後、家康は鳥居元忠らの忠義を記念して、江戸城の伏見櫓の階上に伏見城の血染めの畳を置きました。明治維新による江戸城明け渡しの後、血染めの畳は栃木県精忠神社に納められ、供養されました。

床板は「血天井」として京都養源院はじめ宝泉院・正伝寺・源光庵・瑞雲院、宇治の興聖寺に伝えられ、現在も見ることができます)

小山評定

一方、徳川家康は、7月1日に江戸を発ち、会津へ向かう途上、7月24日下野小山(しもつけおやま。栃木県小山市)に入りました。同日、伏見城より遣わされた使者が下野小山の陣に到着。

「なに三成が動いた?ううむ…ついに来たか」

翌25日。

家康は小山の陣所に諸将を集め軍議を開きます。

いわゆる「小山評定」です。

家康は諸将に西国の戦況を説明した後、

「おのおの方、大阪に妻子を人質に取られ、さぞご心配でござろう。
石田三成や宇喜多秀家につこうという者があれば、すぐに大阪へ向かわれよ。
拙者はそれを恨みには思いませぬ」

ざわざわっ

動揺する諸将。

どうしようか…。

一瞬の躊躇。

その時、福島正則が、

「余人は知らず。某は妻子を犠牲にしても内府殿に御助力いたす。
そもそも三成は、秀頼公のためと言ってはいるが、
秀頼公はいまだ幼少の御身。何もご存じないのでありましょう。
石田三成こそ、秀頼公をたぶらかす佞臣です」

この言葉がきっかけとなり、そうじゃ、その通りじゃと、誰も彼も家康に協力することになりました。

しかし会津攻めを切り上げて西へ引き返すとなると、上杉景勝の追撃が懸念されました。

そこで家康は次男結城秀康を宇都宮城に残し、伊達政宗・最上義光を上杉景勝への牽制として、8月5日、江戸城に帰還しました。

安濃津城の戦い

慶長5年(1600)8月3日、毛利秀元・吉川広家・安国寺恵瓊を中心とする毛利勢3万は伊勢に侵攻。

東軍方の安濃津城(あのつじょう。三重県津市)を攻撃。

城主・富田信高(とみた のぶたか)自らが槍をもって戦うほどの奮戦でりでしたが、1700の城兵で3万の敵ではとうてい防ぎきれず…

8月25日、安濃津城は落城。

勝利に勢いを得た毛利勢はさらに南の松坂城を落としますが、伊勢一国を平定するには至らず、今度は家康の侵攻を食い止めるため美濃に向かい、南宮山(なんぐうさん)に布陣しました。

吉川広家の工作

その間、吉川広家は毛利家を救うべく、必死に工作していました。黒田長政に書状を送り、家康へのとりなしを頼んでいました。

「輝元公は石田三成の決起には、まったく関与していません。すべて安国寺恵瓊の独断です」

これが黒田長政から家康に伝えられ、家康の返事は、

「なるほどよくわかりました。輝元公とは兄弟のように親しくしていたのに、今回大阪城に入ったことを不審に思っておりました。しかし輝元公に他意が無いことがわかって、よかった」

9月14日、本多忠勝・井伊直政より吉川広家と毛利家筆頭家老・福原広俊のもとに「毛利家の領土を安堵する」と起請文が送られました。

こうして毛利と徳川の間に講和が成立したわけです。

が。

この講和交渉は吉川広家の独断で進められたことで、当主・毛利輝元は知らされていなかったようです。

関ヶ原合戦

翌9月15日。徳川家康の東軍と石田三成の西軍が関ヶ原にて激突します。

関ヶ原布陣図
関ヶ原布陣図

東軍7万4千。西軍8万4千。

しかし西軍の多くは事前に家康によって調略されて寝返りを約束していました。

毛利勢は南宮山に布陣していました。

南宮山布陣図
南宮山布陣図

吉川広家はみずから先鋒となって。その後ろに毛利秀元隊・安国寺恵瓊隊。近くには長曾我部盛親の部隊がありました。

午前8時。うっすらと霧が晴れる中、東軍方・福島正則隊と井伊直政隊の味方同士の先陣争いから戦いは始まります。

どかかどかかどかかどかかーー

先駆けをする福島正則隊。

その後に迫る井伊直政隊。その時、

パーーーーン

井伊直政隊より放たれた一発の銃声。これが合図となり、天下分け目の関ヶ原合戦が始まりました。

東軍の黒田長政隊・細川忠興隊・加藤嘉明(よしあき)隊は石田三成隊に、藤堂高虎隊、京極高知(きょうごく たかとも)隊は大谷吉継隊に、それぞれ怒涛の勢いで突撃します。

午前9時。

戦況は一進一退しますが…石田三成の本体は黒田長政隊・細川忠興隊・加藤嘉明隊の集中攻撃にさらされ、苦戦を強いられました。

しかし!

「和州の住人島左近、ここにあり」

きん

ずば

どすっ

島左近隊の突撃により黒田長政隊は混乱。

「ぐぬぬ…島左近恐るべし。正面からではムリだ。迂回して、島左近隊の脇をつけ」

パーーーン、パパパパーーン

黒田長政隊が迂回して島左近隊の脇から一斉に銃撃。

「ぐはっ」

左近本人も重症を負いますが、

ドゴーーーン

笹尾山の石田本陣に据えられた大筒が火を噴くと、

わあーーーーっ

東軍は一気に押し返されます。

11時。

石田三成は南宮山に布陣する毛利秀元・安国寺恵瓊・吉川広家・長曾我部盛親ら2万7千と、松尾山に布陣する小早川秀秋1万5000に対して、のろしを上げます。

「東軍の背後をつけ」と。

しかし。

「…?どうしたことだ。なぜ動かぬ」

いつまで経っても、誰も動きませんでした。

南宮山では吉川広家が前面に陣取り、他の部隊の動きを封じていました。

安国寺恵瓊は

「ええい、何をしている」

焦って、吉川広家・毛利秀元隊に「早く動け」と伝令を送りますが、吉川広家は事前に家康と講和しており、安国寺恵瓊の伝令を無視しまして、動きませんでした。

小早川秀秋の決断

そして松尾山の小早川秀秋は。

事前に家康につくよう密約を交わしていました。しかし正面切って西軍を攻撃するわけでもなく、状況を見守っていました。

松尾山の小早川秀秋
松尾山の小早川秀秋

「後世の人に裏切り者と謗られとうはない…」

そんなことでも、考えてたでしょうか。

正午過ぎ。

三成や大谷吉継から小早川秀秋に、東軍を攻撃するよう督促が来ます。

「うう…どうしたものか…」

小早川秀秋は家康と密約を交わしているんだから、ここで三成の使者を斬り殺してさっさと東軍についたらいい所ですが、それもできず、グズグズしていました。

東軍本陣の家康は、

「おのれ小早川秀秋。どちらに着くか決めかねておるな
松尾山を銃撃してやれ」

パーーン、パパーーン

「殿、東軍が我々を!」

「ひっ、ひいいーーっ。徳川殿に殺されるッ」

ここに至り小早川秀秋はようやく決断しました。

「これより我らは東軍につく」

わーーーっ

どどどどどどとど

小早川隊秀秋隊1万5000は大谷吉継隊600に突撃。

「な…元太閤さまの養子が、家康につくだと!
おのれ小早川!!許さぬぞ」

怒る三成。

その時、

わあーーーーーっ

大谷吉継配下の脇坂安治(わきさかやすはる)・朽木元綱(くちきもとつな)・小川祐忠(おがわすけただ)・赤座直保(あかざなおやす)がいっせいに寝返り、吉継隊の側面から攻撃。

大谷隊はさんざんに打ち破られ、大谷吉継も自刃しました。

その後、東軍は小西行秀隊・宇喜多直家隊に攻撃を集中。どちらもさんざんに打ち破られ、西軍は総崩れとなりました。天下分け目の関ヶ原合戦はわずか半日の出来事でした。

吉川広家はじめ毛利勢は南宮山を一歩も動かず、西軍が負けるきっかけを作りました。そして当主である毛利輝元も…大阪城を一歩も動きませんでした。

毛利元就がこの様子を見ていたら子孫の戦いっぷりを何と言うでしょうかね…。

次回、最終回「その後の毛利家」お楽しみに。

解説:左大臣光永