毛利輝元(九)広島城

こんにちは。左大臣光永です。引っ越しに向けて部屋の整理をしてます。爪切りが五個も出てきました。一人暮らしで爪切り五個は必要ないんですが…爪切ろうと思った時に手元になくて100円ショップで買ってきて、また切ろうと思った時、無くて100円ショップで買ってきて。そんなことを繰り返しているうちにたまっていくんだなと。置く場所を決めておくのは大事なことですね。

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本日は「毛利輝元(九)広島城」です。

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長曾我部攻め

毛利が秀吉政権に組み込まれて、秀吉方としてはじめて戦ったのが、天正13(1585)夏の長曾我部攻めです。

土佐の長曾我部元親は天正3年(1575)土佐を統一。さらに天正13(1585)年春に河野氏を破り、四国を統一しました。その一方で元親は秀吉と対立し、讃岐で秀吉の軍勢を破り、賤ヶ岳では柴田勝家に協力し、小牧・長久手では徳川家康に協力と、一貫して【反秀吉】の立場を貫いていました。

「今こそ長曾我部を下す!」

天正13(1585)年6月。秀吉は四国への侵攻を開始します。淡路から阿波。備前から讃岐。安芸から伊予という3ルートを通っての侵攻でした。

この四国攻めにおいて、毛利輝元は小早川隆景・吉川元長を派遣しました。毛利と長曾我部はかつて友好関係を築いていたにも関わらず、秀吉方として、毛利は長曾我部討伐に加わったわけです。

また四国攻めのさなか、羽柴秀吉は関白に就任。これにより四国攻めは天下統一のための正義の戦いという色合いを強めていきます。

8月。長曾我部元親は降伏。以後、元親は、土佐一国の領有を許されます。

秀吉は小早川隆景に対し、四国攻めの功績により伊予33万石を与えると申し出ます。しかし小早川隆景は、

「それはおかしい。私は毛利家の一家臣に過ぎません。どうしても下さるというなら、まず輝元公に伊予33万石をお与えください。しかる後に、輝元公より受けましょう」

こう言って、あくまでも自分は毛利の家臣であるという立場を貫きました。秀吉としては、頭のキレる小早川隆景を直臣として取り立てたいという意図がありましたが…「毛利両川」体制…毛利・吉川・小早川三家が助け合わねば毛利は滅びるという、父毛利元就の教えは生きていました。

島津攻め

天正14年(1586)薩摩の島津氏が長年敵対関係にあった大友氏を攻撃して豊後に入り、大友義統(おおとも よしむね)を豊前へ追放しました。このような動きは秀吉政権の停戦令に反したものでした。

「停戦令違反は許しがたい。島津を討伐する」

九州征伐の始まりです。総勢19万で九州に侵攻。毛利家は先鋒を命じられます。毛利輝元・小早川隆景・吉川元長、そして隠居していた吉川元春も秀吉に駆り出され、九州に渡りました。

それにしても毛利が島津と戦うとは皮肉なことでした。

もともと毛利と島津は友好関係を保っていました。それは毛利氏と北九州の大友氏は宿敵同士といっていい、犬猿の仲でした。その大友氏は島津氏と仲が悪かったので、敵の敵は味方ということで、毛利氏と島津氏との間には友好関係が保たれていたのです。

しかし、状況は変わりました。

今や毛利家は秀吉政権下に取り込まれています。秀吉の命令で九州にわたり、島津と戦うんです。また、長年のライバルであった大友氏とは逆に味方同士になるという、皮肉なことでした。

毛利勢は同天正14年9月、関門海峡を渡り、小倉城を落とします。しかし同年11月、吉川元春は、小倉城にて、病が悪化し帰らぬ人となります。享年57。毛利両川の一翼として長く毛利体制を支えてきた生粋の武人でした。その人柄は「寒中の梅花」にたとえられます。寒い厳しい環境でも凜として咲く、力強い感じでしょうか。

知能派の弟・小早川隆景とは兄弟ながら好対照をなしていました。

翌天正15年(1587)6月、跡取りの吉川元長も日向の陣中で没します。吉川家の家督は元長の弟・吉川広家が継ぎました。

元長の死に先立つ天正15年5月、島津家当主・島津義久は秀吉に頭を剃って降伏してきました。ここに九州攻めは終わりました。

戦後。

「小早川隆景、こたびの九州攻めの功績、ご苦労。
それにしても元春のことは悔やまれることであった…」

秀吉は小早川隆景の功績に対して厚く報います。筑前と筑後の二国と肥前の一部計37万石を与えました。ただし伊予33万国は召し上げとなります。しかも今度は、輝元を通して、ではなく秀吉から小早川隆景に直接与えました。小早川隆景は秀吉直臣となりました。が、依然として毛利輝元の直臣でもあるという、微妙な立場となりました。

聚楽第

天正16年(1588)4月、秀吉は京都北野に築いた聚楽第に、配下の大名を集め、後陽成天皇を招いて接待しました。秀吉の力を天下に示す、デモンストレーションでした。

この時毛利家は九州で一揆の鎮圧にあたっていたため来られませんでしたが、7月には毛利輝元・小早川隆景・吉川広家はこぞって上洛。聚楽第にて秀吉に謁見します。特に、当主である輝元が直接秀吉に謁見したのはこれが初めてでした。

8月、秀吉は聚楽第で観月の会を開き、毛利輝元・小早川隆景・吉川広家を招きます。三河の徳川家康、備前の宇喜多秀家、越後の上杉景勝らが歌を詠みます。その座には秀吉政権下の有力大名が顔をつらねていました。

「輝元殿、四国と九州での毛利の働き、まこと感謝しておる」
「ははっ…」

ふかぶかと頭を下げる毛利輝元。これにより、毛利が豊臣政権に下ったことが、天下に知らしめられました。またこの時秀吉は朝廷に働きかけに毛利輝元は従四位下参議に序せられ、後には従三位権中納言となります。毛利氏の領土もあらためて豊臣政権から120万石が改めて与えられる形となりました。

広島城

「今やすっかり豊臣の大名か…
長年織田・羽柴と戦ってきたのが夢のようだ」

毛利輝元、そんな感慨もあったでしょうか。

それにしても。

120万石の豊臣大名としては、山間の吉田郡山城では不便でした。まして輝元は今回の上洛で、聚楽第や大阪城を見ました。新しい城を作る必要がありました。新しい城がほしい…そう思い始めました。

そこで海上交通にも陸の交通にも便利のいい、海沿いの平地が選ばれました。

広島です。

天正17年(1589)3月から城と城下町の造営が始まり天正19年(1591)、毛利輝元は広島に入ります。

約250年間にわたって毛利の本城であった吉田郡山城は、廃城となりました。広島城は8年後の慶長4年(1599)に完成を見ます。五層の天守を持つ荘厳なたたずまいは、視察に訪れた秀吉も絶賛したほどでした。

小早川秀秋

天正19年(1591)広島城入りしたばかりの毛利輝元に、秀吉から黒田官兵衛を通してやっかい事が持ち込まれます。

「輝元殿ももう40歳過ぎ。しかし今だに跡取りがいないことを
関白殿は心配しているのです。そこで」

養子を取れ、というのでした。

養子の候補者は秀吉の正室・北政所の兄・木下家定の三男で、秀吉の猶子になっていた木下秀俊(きのしたひでとし)。この年10歳です。

木下秀俊
木下秀俊

「うむむ…」

考え込む輝元。

輝元にはすでに養子がいました。毛利元就の四男・穗田元清(ほいだ もときよ)の子・秀元です。しかし秀吉からの提案となると、半ば強制です。受け入れないわけにはいかないです。

しかし秀元を廃嫡して木下秀俊を受け入れるとなると、やがて豊臣家によって毛利家が乗っ取られるのは目に見えていました。

「どうしたものか…」

困り果てた輝元は叔父の小早川隆景に相談します。何といっても困った時、頼りになるのは隆景でした。この頃、隆景は秀吉の朝鮮遠征に駆り出されて指揮官として働いていましたが、帰国するとすぐに手を打ちます。

「木下秀俊さまを、小早川家の養子としてお迎えしたい」

小早川隆景は秀吉にこう願い出ました。

「おお…小早川殿が引き受けてくれるなら、
これは願ったりかなったりじゃ」

そんな感じで、秀吉は隆景の申し出をすんなり受け入れました。

こうして木下秀俊は小早川の養子となり小早川秀俊となります。しかし困った問題がありました。小早川隆景にはすでに秀包(ひでかね)という養子がいました。

「すまぬ秀包…毛利のために小早川家を抜けてくれ」
「仕方がありません」

こうして秀包は廃嫡され、小早川秀俊が小早川家の跡取りとなりました。後に名を改めて小早川秀秋となります。

小早川秀秋
小早川秀秋

小早川隆景は毛利家にふりかかった災難を小早川家を防波堤として、堰き止めたわけです。

文禄4年(1595)小早川隆景は秀秋に家督を譲り、三原城(広島県三原市)に隠居します。元々の毛利領内の所領6万6000石に加え、秀吉から隠居料として筑前に5万150石の地が下されました。

小早川秀秋は労せずして筑前・筑後二国と肥前の一部計37万石を領有する大名となりました。

一方、廃嫡された秀包は独自に家を創り、筑後久留米(福岡県久留米市)13万石の大名となりました。

「とにかくこれで…毛利の名前は残せた」

小早川隆景はそんな感じで安心したでしょうか。3年後の慶長2年(1597)6月、三原城にて息を引き取ります。

次回「毛利輝元(十)関ヶ原前夜」お楽しみに。

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本日も左大臣光永がお話しました。
ありがとうございます。ありがとうございました。

解説:左大臣光永