毛利輝元(八)秀吉政権下の毛利氏

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本日は「毛利輝元(八)秀吉政権下の毛利氏」です。

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中国大返し

天正10年(1582)6月2日。織田信長が本能寺にて、明智光秀に討たれました。信長の嫡男信忠も二条新御所にて自刃。翌3日、備中高松で毛利攻めをしていた羽柴秀吉のもとに信長討たれるの知らせが届きます。

「殿が…!!」

秀吉は悲しみにひたる暇もなく、固いかん口令を敷くと、条件を大幅に引き下げて、毛利と講和します。

6月4日。高松城主・清水宗治は小舟に乗せられ、切腹します。享年46。不利な状況の中、最期まで毛利に忠義を尽くしたことでした。

「さあ光秀とケンカじゃ」

6月6日、秀吉は陣払いをするとすぐに明智光秀と決着をつけるべく山陽道を東へ向かいます。6月7日、姫路に入ります。

毛利方がいつ信長の死に気付いたかは不明ですが、気づいた時は地団太を踏んだでしょうね。

「道理でバタバタしていたと思った!」
「信長は死んでいたのだ!」

「今すぐ秀吉を追撃しましょう」
「そうです。今なら間に合います」

家臣たちはそう主張しますが、小早川隆景・吉川元春は

「追撃した所で、秀吉に勝つことは難しい。毛利が潰されるだけだ。
それに今、盟約を守って秀吉を見逃しておけば…
後々秀吉は毛利を優遇するだろう」

そう判断してのことでした。

つまり、貸しを作っておいたわけです。将来秀吉が天下人になることを見越して…

6月13日。秀吉が山崎の戦いで明智光秀を破ると、毛利輝元は安国寺恵瓊を使者として秀吉の元に送り、祝いの言葉を述べました。

清洲会議

天正10年(1582)年6月27日、信長の後継者を決めるための清洲会議が、尾張国清州城で開かれます。集まった面々は羽柴秀吉・柴田勝家・丹羽長秀・池田恒興。織田家家臣団の重臣たちでした。

「私は三男の信孝さまを推す」

という柴田勝家の主張に対し、羽柴秀吉は、

「長男信忠さまの子・三法師(さんぼうし)さまこそ、後継者としてふさわしい」

清洲会議
清洲会議

結局、明智光秀を討った羽柴秀吉のほうが発言力が強く丹羽長秀・池田恒興も秀吉の側につきます。柴田勝家の意見は退けられました。

4日後、柴田勝家・丹羽長秀・池田恒興の三人が集まっている所に、三法師を抱いた羽柴秀吉が現れると、は、ははーっと柴田勝家・丹羽長秀・池田恒興は平伏。ここに、三法師が織田家の家督を継ぎ、三法師をあやつる秀吉が、新体制のトップとなります。

賤ヶ岳の戦い

「秀吉の政権など、認められぬ」

清洲会議に不満をたぎらせた柴田勝家は、信長の妹・お市の方を妻に迎え、我こそは織田家をささえる重臣であると秀吉に示します。そして織田信孝・滝川一益(かずます)と組んで反秀吉連合を結成。秀吉方と対立を深めて行きます。

天正11(1583)年4月。

北近江・賤ヶ岳(滋賀県長浜市)付近で向かい合う、羽柴秀吉・柴田勝家の両軍。

ぶおっほーぶおっほーー

ワァーーーワァーーー

柴田方はじめは優勢なるも、佐久間盛政隊が突出して大損害を出したこと、そして前田利家の裏切り(理由は諸説あり)が決定打となり、柴田勝家は越前・北ノ庄(きたのしょうじょう)城(きたのしょうじょう)に撤退。城に籠ると、妻お市の方ともども、自害しました。

実力者・柴田勝家が討たれたことにより、旧織田政権下で秀吉と対抗しうる者は徳川家康を残すのみとなりました。

このように。

山崎の戦い、清須会議、賤ヶ岳の戦いを経て秀吉は天下人として駆け上がっていったわけですが…

様子見の毛利

その間、毛利はどうしていたのか?

様子見です。

賤ヶ岳の戦いでは足利義昭からせっつかれていました。

「毛利ははやく柴田勝家に味方して、秀吉を討て」と。

しかし毛利輝元は軍勢を動かす指示を出しませんでした。秀吉が勝つか、柴田勝家が勝つか、見極めてから動こうという考えだったでしょう。

しかし秀吉は毛利方のそのような曖昧な態度を許しませんでした。

賤ヶ岳の戦いに勝利して全権を掌握した秀吉は、毛利領への再侵攻をほのめかします。戦いになりたくなければ領土を割譲せよと。もはや恫喝ですね。

「ぐぬぬ…どうしたものか」

毛利輝元は苦しい決断を迫られます。本来ならばリーダーとして早急な決断をしなければならない場面です。

某城と某城は秀吉に渡す。だが某よりこっち側は断固として譲らぬ、などと、毅然とした態度で、言うべき所です。しかし輝元は、そのような判断はできませんでした。吉川元春・小早川隆景に丸投げします。

「何とか、両名でうまくやってくれ」

毛利家の未来に関わる重大事なのに!将棋か囲碁のように、のんきに構えていました。まるで他人事でした。

その上、輝元はもし秀吉と戦争になっても勝てると本気で考えていたようです。この頃、全体的には毛利方不利とはいえ、部分的に勝利を収めていたためです。

「まったく困ったお方だ。秀吉と戦になったら10の内78は負ける」

安国寺恵瓊はそう考えました。小早川隆景も安国寺恵瓊と同じ意見でした。吉川元春はすっかりイヤになって、天正10年(1582)末に家督を息子の元長に譲り、隠居してしまいました。

小早川秀包、人質となる

小早川隆景は毛利輝元にさかんにすすめます。

「もはや毛利が生き延びるには羽柴秀吉に協力するほかありませぬ。
お考えください」

「まあ叔父上がそうおっしゃるなら…しかし何をすればよいのか」

「まずは人質を送りましょう」

天正11年(1583)9月、毛利元就の九男で小早川隆景の養子に入っていた小早川秀包(ひでかね)と、吉川元春の三男・吉川広家が、人質として秀吉のもとに送られます。

毛利方としては秀吉に対しる「敵意はありません」との意思表明でした。

これで毛利家は秀吉の傘下に加えらる形になりました。以後、毛利輝元は秀吉の遠征にすすんで協力するようになります。おそらく小早川隆景がそうするよう毛利輝元にすすめたんでしょう。毛利家が秀吉方として参加した最初の大きな戦いが、天正13(1585)年の長曾我部攻めです。

次回「毛利輝元(九)広島城」に続きます。お楽しみに。

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本日も左大臣光永がお話しました。
ありがとうございます。ありがとうございました。

解説:左大臣光永