毛利輝元(六)鳥取城の戦い

こんにちは。左大臣光永です。日に日に蒸し暑さが増す昨今、いかがお過ごしですか?

私は先日、秋葉原のツクモパソコン本店でバーチャルリアリティーを体験してきました。すごいですね!予想以上でした。海の中でクジラが横切っていく場面を体験したんですが、本当に海の中に自分がいるとしか思えなかったです。ぐわーーっと近づいてきたクジラが、ぎょろっとこっちを見る、クジラの目の動きやまばたきの感じがえらく生々しかったです。そしてクジラがしっぽをうねらせて悠然と泳ぎ去る所では、思わず首をひゅっと縮めてしまいました。

さて。

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本日は「毛利輝元(六) 鳥取城の戦い」です。

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第二次木津川口合戦

天正6年(1578)、毛利と織田の争いは続いていました。

毛利方は上月城を奪取し、織田方の別所長治や荒木村重を離反させ…

勢いづいていました。

「よし。ここで再度本願寺を助け、信長に打撃を与えよう」

天正6年(1578)11月。

毛利輝元は、本願寺への物資搬入を行うため、毛利・村上水軍600艘を木津川口へ向かわせました。しかし信長、今度は毛利の動きを読んでいました。

「二年前のようにはいかんぞ…」

信長は伊勢の水軍大将・九鬼嘉隆(くき よしたか)に命じて、二年がかりでとんでもないものを作らせていました。

大砲三門と無数の銃をそなえ、船全体を鉄の装甲で覆った、六隻の「鉄甲船」です。長さ23m、幅13.7m、5000人を乗せることができたと伝えられます(『多聞院日記』)。

「な、なんだあれは!」
「でかい!!」

「うろたえるな。でかくても焼き払ってしまえばよい」

ひゅん、ひゅんひゅん

毛利方は火矢を放ちますが、

カン、コン、コン

「なっ」

「はじき返された!」

「砲門を開け」

ガゴゴゴゴコー

鉄甲船の横ッ腹にしつらえてある三つの大砲が開き、黒々とした砲門が姿を現し、

ドゴーーーーン

ドゴーーーーーーン

ドゴーーーーーーーーン

ぎゃあああああ

毛利方はなす術もなく、新兵器・鉄甲船の前に蹴散らされた

…というのが従来の定説でしたが、

実際、鉄甲船なるものはあったのか?
言われているほど毛利が惨敗したのか?

諸説あって、わからないです。

そもそも、こんなスゴい兵器を造ったのに、その後一度も使われた形跡が無いのがおかしいですね。

えっ、あの鉄甲船はどこに行っちゃったの?ていう…

とはいえ、実際にこの第二次木津川口の戦いの後、織田方が瀬戸内海の制海権をにぎり、毛利方は以前のように本願寺に補給ができなくなりました。毛利と本願寺の通路が絶たれてしまったんですね。毛利・本願寺双方にとって大ダメージです。

相次ぐ裏切り

しかし。

第二次木津川口の海戦に敗れたからといって、毛利方がすぐに織田方に負けてしまうというわけではありませんでした。

上月城の勝利といい、荒木村重や別所長治が織田を裏切り毛利についたことといい…

毛利方にも有利な条件はいくつもありました。

この頃毛利家の版図は中国一円と四国・九州の一部を加え、元就の時代をはるかに上回りました。

また何といっても毛利領の備後鞆(広島県福山市)には将軍・足利義昭がいます。

毛利輝元は足利義昭の「鞆幕府」を補佐して、「副将軍」となっていました。

毛利家が天下に号令する大義名分は、そろっていたわけです。

ところが

その後も味方の離反が相次ぎます。

天正6年(1578)3月、毛利の身内である市川元教(いちかわ もとのり)が背き、

翌天正7年1月、毛利家重臣の身内である杉重良(すぎ しげよし)が背きます。

毛利家絶頂期であるにも関わらず、人が離れていく…

しかも身内が。

「ゆゆしき事態である」

小早川隆景は危機感をつのらせ、本国の毛利輝元に書状を送ります。

「今度の戦は毛利家の命運を分けるものになるでしょう。
気をひきしめてかかってください」

しかし毛利輝元は、

「叔父上はこのように言ってきたが…
荒木村重殿も、別所長治殿も織田をそむいて
毛利についている。

しかも我々は将軍を擁しているのだ。
私は天下の副将軍であるぞ。

織田など、何のことでもない」

そんな感じで、危機感が欠けていました。

天正6年(1578)6月。

毛利方宇喜多直家が織田方に寝返ります。

宇喜多直家は毛利・織田の最前線である備前にいました。

これが織田方につくということは、毛利にとってはなはだ危ないことになります。大打撃でした。

宇喜多直家の離反を契機に、毛利・織田の戦いは一気に織田有利に傾きます。

天正7年(1579)9月、荒木村重が有岡城から逃亡。有岡城はほどなく落城。

天正8年(1580)1月、別所長治の三木城が羽柴秀吉の兵糧攻めを受けて、落城。別所長治は自刃。

同年4月、石山本願寺も織田方と講和を結びます。11年間にわたって織田・本願寺で戦われた石山合戦はここに終わり、本願寺は、対織田戦争から離脱します。これも毛利方にとって大打撃でした。

鳥取城の戦い

天正8年(1580)5月、羽柴秀吉は弟秀長とともに因幡の鳥取城攻略にとりかかります。

鳥取城は久松山(きゅうしょうざん)の上にそびえる天然の要害でした。

「これを正面から攻めるのは愚である」

そこで秀吉は、城主・山名豊国(やまな とよくに)を調略します。

もとより毛利方不利を身に染みてわかっていた山名豊国は、

「わかりました。織田につきます」

アッサリ返事してきます。しかし家臣がこれを見抜いて、

「冗談じゃない。我々は毛利の家臣である」
「簡単に裏切るなど、武士としてあるまじき事だ」

とうとう城主・山名豊国を追い出してしまいます。

そして毛利方・吉川元春に書状を送ります。

「こうこうこういうわけで、不届きな城主を追い出しました。
鳥取城に、新しい城主を送ってください」

「ううむ…新しい城主といっても」

吉川元春は考え込みます。

目下、毛利は山陽道で宇喜多直家・織田信長連合軍と戦っていました。また山陰では、かつての味方・南条氏が背いて織田方として毛利に抵抗していました。

この上兵力を割くことは、できませんでした。

今はより重要な宇喜多・織田・南条と戦うため、優先度の低い鳥取城は見捨てるほかありませんでした。鳥取城に人をやるということは、死にに行けと命ずるようなものでした。

吉川元春は悲痛な気持ちで、吉川の一族である吉川経家に書状を送ります。

「というわけだが、行ってくれるか」

「行きましょう」

吉川経家は鳥取城赴任に際し、自らの首を入れる、首桶を用意していったと伝えられます。

死を覚悟していました。

天正9年(1581)3月、吉川経家は鳥取城に入ります。

「すぐにも秀吉が攻めてくるぞ。
準備を怠るな」

吉川経家は、1400人の城兵のみで籠城戦の準備をしますと。秀吉が攻めてくるならば7月頃。それから4ヶ月も籠城すれば、雪が降ってくる。山陰の強烈な寒気の前に、秀吉は撤退するだろう…。

しかし籠城戦に必要な食料が、圧倒的に足りていませんでした。

折からの不作に加え、秀吉が米を高値で買い占めていました。籠城戦を見越して、若狭から米買船を送り、因幡国中の米を高値で買い占めていました。その高値につられて、鳥取城の城兵は大事な米を売り払っていました。

天正9年(1581)6月、秀吉・秀次は2万の兵を率いて鳥取城に攻め寄せました。

「秀次、今度の戦は気楽じゃ。のんびりやれ」
「ははは。何しろ囲むだけですからな」

一ヵ月、二ヵ月経つと…

すっかり食料が底をつきます。

「ひもじい…」
「もうダメだあ…」

城兵たちは木や草の根をかじって食べ、次には稲を刈り取った後の切株を食べ、次には牛や馬を殺して食べました。

それも尽きると、餓死者が続出します。

餓死者の死体のまわりに、わらわらと数人が取り囲み、
わあっ

ふがっ、ふがっ、ふがっ、ふがっ、

人肉を喰らい合うという生き地獄の有様となりました。

「これは…あんまりだ」

城主吉川経家は心を痛めます。私の命と引き換えに城兵の命は救ってくれと秀吉に願いました。秀吉はもとより吉川経家を殺すつもりはありませんでした。敵ながら見事な奮戦ぶりと、経家をほめました。しかし経家はあくまで責任を取って腹を切ると譲りません。本人がそう言っている以上、秀吉にはどうしようもありませんでした。

10月25日、吉川経家は切腹となり鳥取城は落城しました。

辞世です。

武士(もののふ)の取り伝えたる梓弓
かえるやもとの栖(すみか)なるらん

次回「毛利輝元(七)備中高松城」に続きます。お楽しみに。

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本日も左大臣光永がお話しました。
ありがとうございます。ありがとうございました。

解説:左大臣光永