武田信玄と上杉謙信(十二) 三方ヶ原の合戦

三方ヶ原の合戦

「とはいえ地の利はこちらにある。
武田が祝田(ほうだ)の坂を下りた所で、背後を突くぞ!」

徳川軍は浜松城を出て、織田の援軍とともに鶴翼の陣を作って武田軍の背後から襲いかからんとします。

一方、武田軍は三方ヶ原北方の祝田(ほうだ)に向かっている所でした。

「やはり家康は出てきたか。…全軍反転!」

信玄は全軍を反転させ、

「かかれーーーッ」

魚鱗の構えをなして、徳川軍に襲いかかります。魚鱗の構えとは、魚の鱗のように、魚の鱗のように先がとんがった形の陣形です。とても攻撃的な構えです。

12月22日夕刻。武田軍中央の小山田信繁隊の足軽たちが、

「それっ、石を投げろ」

ひゅん、ひゅんひゅん

ゴチッゴチッ

わーーーー

徳川軍中央の石川数正隊に石つぶてを投げ始めた事から、戦いが始まります。

「おのれ甲斐の山猿どもめが!!」

徳川方・石川数正隊は、武田方・小山田信繁隊につっこむ。武田方・小山田信繁隊押される。キン、ズバ、ぐはあっ。勢いに任せて押しに押す石川数正隊。押される小山田信繁隊。しかし徳川方がよく戦ったのはそこまででした。

もとより兵力は武田方が優勢。

兵力を温存していた武田勝頼隊・馬場信春隊・内藤昌秀隊が次々に投入され、徳川方の鶴翼の陣はもろくも切り崩されていきます。

「ひ、ひいいいーーーっ、か、かなわぬ」

徳川家康はほうほうの態で浜松城に逃げ帰ります。一族そろっての、目もあてられない敗走っぷりでした。この時伝わっている有名な逸話があります。

「ひぃ、ひぃ、ひぃーー…ようやく浜松城に着いた。助かった!」

すっかり安心した家康。なんだかお尻のあたりが温かい。ん?ああっ…!!

「あっ!御屋形さま、それは…まさか…」

「お?いやいや、そんな、漏らすなんてするわけ無いだろう。
これは…ほら、あれだ。昼に食う焼き味噌だ。
勘違いするな!」

ほんとか嘘かわかりませんが、そういう話が伝わっています。

「とにかく、門を閉めましょう!」

「いや待て!閉めてはならぬ…開けっ放しにしておけ」

「は?」

「そして松明をたき、太鼓を叩きまくれ!」

ついに狂ったか、そう思いながらも家来たちは家康に命じられた通りにすると、やがて攻め寄せた武田方の軍勢は、

「ぬおっ!なんだこれは。門を開けっ放しにして、しかもこの、にぎやかさ。 何か策があるに違いない。深追いは危険!退け、退けーーーっ!」

退き上げていきました。

「見たか。これぞ、空城の計よ」

徳川家康、転んでもタダでは起きない男ではありました。

家康は三方ヶ原で負けた時の自分の情けない姿を肖像画に描かせ、後々まで自分を戒める材料としました。これはわりと信憑性の高い話です。

徳川家康像
徳川家康像

2時間ほどで戦は終わりました。武田軍の圧勝でした。

ワアァーーーーーッ

勝どきを上げる武田軍。

ビビりまくる徳川家康。

しかしここで武田軍は、不可解な行動に出ます。

浜松城は完全に無視して、三方ヶ原北方の刑部(おさかべ。静岡県浜松市)に移動。さらに不思議なことに、刑部から一歩も動かなくなりました。

「何を考えているのだ信玄は…」

困惑する徳川家康。

そのまま10日…20日…ついに年を越してしまいました。

この時、信玄には動けない理由が二つありました。

一つは北近江で織田信長と戦っていた朝倉義景(あさくらよしかげ)が撤退したこと。これにより信長包囲網の一角が崩れ、信長が浜松方面に増援を送ってくるかもしれない。ために信玄はうかつに動くことができませんでした。

そしてもう一つが病です。

「ごほっ…げほっ…」

「父上、しっかりなさってください…!」

「勝頼、わしはどうやら長くない…だが、
将兵たちにそれをけして気取られるな。
必ず上洛を成し遂げ、武田の旗を都に立てるのだ」

信玄の病

亀4年(1573)正月、武田信玄の病状が一時回復したのか、武田軍はようやく刑部の地を離れ、三河に侵攻。徳川方の野田城(愛知県新城市野田)を落とします。

「何としても京にたどり着き、武田の旗をたなびかせるのだ…」

それが信玄の執念でした。

しかし、病状は一進一退しながら、確実に信玄の体を蝕んでいました。

「ぐはっ…ごほっ…」

喀血に次ぐ喀血。

同年2月、信玄の病状については上層部にしか知らせないまま、長篠城(愛知県南設楽(したら)郡蓬来町)に移ります。その後、武田軍は長篠城から全く動かなくなりました。翌3月に入っても、まったく動きませんでした。

「いったい…武田信玄は何を考えているのだ」

武田を攻めている側の徳川・織田も信玄の真意をはかりかねていましたが、信玄の上洛をあてにしていた将軍足利義昭も、

「ええい!武田信玄は何をグズグズしている!」

焦っていました。

足利義昭は織田信長と仲違いして二条城で挙兵したところでした。それは武田信玄がすぐに上洛して織田信長を打ち滅ぼしてくれると期待してのことでした。

その信玄が上洛しない。となると、信長によってどんなヒドい目にあわせられるか。

「武田信玄、早く!一刻も早く上洛せよ!」

足利義昭はたびたび信玄に書状を送り催促しますが…

返事はありませんでした。

「やはり…病か」

織田信長は確信しました。長篠城に放った喇叭から届けられる情報は、すべて信玄が病の床にあることを裏付けるものでした。

信玄 没す

勝頼以下、武田家臣団は話し合います。

「これ以上長篠にいては、徳川・織田に攻め込まれる。
ロクなことにならん」

「そうじゃな。いったん甲斐に戻ろう」

こうして西上作戦は頓挫し、武田の軍勢は甲府を目指して引き返していきます。その途中、信州伊那郡駒場(こまんば)にて。信玄の病はいよいよ重くなります。

駒場
駒場

「もはや…躑躅ヶ崎館に帰れそうもない…」

ああ懐かしの躑躅ヶ崎館。甲府の空。四方に迫る、甲斐の山々。信玄は何を思ったでしょうか。

信玄の主治医が、信玄臨終の様子について、つくづく書き記しています。

武田軍数万の兵が周囲を守り、多くの頼もしい旗本が回りを固めていても、信玄公を襲う無常の悪鬼を、防ぐことはできなかった…。

信玄は跡取りの勝頼を呼んで遺言します。

「わが運はすでに尽きた。しかし帝都に旗を預けずに死んでいくのは、何とも悔やまれることである。
信玄死すと聞けば、敵はいっせいに蜂起するであろう。三年の間は、わしが死んだことは隠しておけ。
国内の供えを固めよ。部下を大切にせよ。そして父の遺志を継ぎ、一度でも京都に攻め上ることができれば、
草葉の陰で父は喜ぶであろう」

「父上…父上…!」

信玄はまた勝頼に言います。

「謙信とは講和せよ。謙信は男気のある武将であるから、若いお前を苦しめるようなことはしない。私は大人げなくも最後まで謙信を頼ることができなかった。お前が頼れば謙信は必ず力になってくれる。あれは、そういう男だ」

そう言い残して、武田信玄は息を引き取りました。元亀4年(1573)4月12日。享年53。

謙信、春日山城にて信玄の死を知る

上杉謙信が武田信玄の死を知ったのは、越後春日山城においてでした。その時謙信は湯漬けを食していましたが、

「なに!信玄が!」

カラーン

思わず箸を落とし、

「信玄のような男をこそ、英雄と言うのだ。今や関東の武士は、柱を失った。
惜しい男を亡くしたものよ。ああ」

そう言って涙を流したと伝えられます(『古老物語』)。

解説:左大臣光永