武田信玄と上杉謙信(十) 駿河攻略

今川攻め

第四次川中島合戦の後は、武田信玄も上杉謙信も、それぞれの領土拡大に集中しました。武田信玄は北条氏康と手を結び、上野の箕輪(みのわ)城を落とし、城主・長野業盛(ながの なりもり)を自刃に追いやります。

永禄10年(1567)8月、

「次は駿河ぞ」

「ななっ!」

驚く武田家家臣団。

「お館さま、駿河今川は同盟国です。それに義信さまが…」

「そうです父上!私の妻は今川の娘。よもやお忘れではありますまい」

「わかっておる。だがな、今の今川家を見てみろ。桶狭間で義元公が討たれて以来、
跡を継いだ氏真(うじざね)は酒色にふけり、領民を顧みない」

「だからといって父上…」

「ええい。これ以上反対するなら、いくらお前でも容赦せぬぞ」

「ち…父上…」

とうとう武田信玄は強引に駿河侵攻を決めてしまいます。最後まで反対していた嫡男の義信は捕らえられ、東光寺に幽閉されました。

その後、武田信玄は義信の妻を駿河に戻します。

義信は東光寺で自殺したとも、殺されたとも言われています。東光寺はかつて諏訪頼重が自害に追い込まれた所でもあります。なにか武田信玄という人物の暗部がドロドロと渦巻いているような場所です。

駿府奪取→放棄

永禄11年(1568)12月、武田信玄は軍勢を率いて駿河に侵攻。サッタ峠にて北条氏真軍を破り、駿府城に入ります。

「ひいい…武田め…約定を破りおって!」

今川氏真は夫人らと共に駿府城を脱出し、遠江の掛川城に逃れました。乗り物もなく、裸足で逃げていったと伝えられます。

こうして武田信玄は駿府を手に入れましたが、油断はできませんでした。

「約定を一方的に破るなんて、ひどい。武田信玄はけしからんヤツだ!」

今川氏真はそう言って、甲相駿三国同盟のもう一つの「点」である北条氏康に連絡を取ります。北条氏康は後北条氏三代。初代北条早雲の孫にあたり、比類なき豪の者でした。生涯戦いに勝つこと36回。全身に七つの傷を受け、特に顔面に受けた二つの傷は、氏康疵(うじやすきず)と呼ばれていました。連絡されて北条氏康は、

「なに、武田が?それはけしからん」

嫡男の氏政(うじまさ)に軍勢を授け、今川氏真救援に向かわせます。

北条氏政が軍勢を率いて攻めてくる。しかも、それに相応じて越後の上杉謙信も軍勢を動かしている。それを聞いて武田信玄は危機感を高めました。

「これは駿府どころではない。いったん兵を退くしかあるまい」

涙ながらに信玄は、せっかく手に入れた駿府をあきらめて、甲斐に引き返します。

小田原城包囲

態勢を整えた武田信玄は、軍勢を率いて今度は北条氏康を攻めます。北条の城を次々と落とし、ついに小田原城に至り包囲しました。前の永禄4年に上杉謙信に包囲された時の例でわかるように、小田原城は難攻不落の天下の名城です。しかも北条氏康は長期戦の構えで小田原城にこもります。

「まずいな。戦が長引く」

そう悟った武田信玄は、すぐさま小田原城の包囲を解き、相模川沿いにいったん甲斐に引き返そうとしますが、そこに!

三増峠の戦い

パーーーン

三増(みませ)峠のあたりで、突如、北条の伏兵20000が武田勢に襲い掛かります。

三増峠
三増峠

「やはり北条氏康、こう来たか」

信玄は、北条の奇襲を読んでいました。先遣隊5000を少し先に進ませていましたが、この先遣隊に知らせを出すと、すぐに先遣隊は引き返してきて、北条軍の側面から襲い掛かります。

わあーーーーーっ
わあーーーーーーーっ

奇襲に対して奇襲をかけられ、北条軍は武田軍によって、あそこ、ここに打破られました。

「ふん…小田原城は落とせなかったが、一矢報いた形にはなろう」

こうして武田軍は多くの被害を出しつつも、甲府に帰還しました。

三度駿河へ

さらに、休む間もなく信玄は軍勢を率いて三度駿河に侵攻し、蒲原城(かんばらじょう)を落とし、駿河全域を手中に収めます。

解説:左大臣光永