武田信玄と上杉謙信(七) 謙信、関東管領への道

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第一回 川中島合戦

天文22年(1553)8月、第一回の川中島合戦が行われます。

しかし!

「退けっ」
「深追い無用」

この時は双方、ニラミあいと様子見のみに終わりました。


謙信、上洛

天文22年(1553)、24歳の上杉謙信は、昨年の叙任のお礼のため上洛し、後奈良天皇に拝謁します。盃と御剣を賜り、ありがたいお言葉を下されます。

「本国越後と近隣の敵を討伐し、その武勇を子孫に示せ」

「ははっ!」

謙信は感激の涙にむせび、朝廷の内裏修復費用として多額の献金を行いました。

また今回の上洛は、石山本願寺や堺商人と渡りをつけるという目的もありました。参内を終えた謙信は本願寺教如上人にさまざまな贈り物をします。いずれ上洛する際には、越前・能登・加賀の一向一揆衆が問題となる。その時、どうか謙信が上洛するのを邪魔しないで、通してくれ…という意味での、下地作りでした。

また堺では鉄砲や玉薬(火薬)、南蛮渡来の珍品を買いました。その後高野山で真言密教の教えを受けたりして、謙信はこの年の暮れ、本国越後に帰っていきました。

甲相駿(こうそうすん)三国軍事同盟

さて。

信玄の父信虎の時代から、甲斐は国境を接する相模、駿河の二国と、断続的に争いを繰り返していました。

信濃に侵攻するにあたって、一番の心配は、相模、駿河両国に背後をつかれることでした。

一方、相模の北条氏康は、関東管領の上杉憲政(うえすぎのりまさ)としばしば争っていました。また駿河の今川義元は、三河・尾張へ勢力をのばし、いずれは上洛をもくろんでいました。

そして甲斐は、目下信濃で諸豪族相手に戦っています。

甲斐の武田信玄、相模の北条氏康、駿河の今川義元、

三者三様、それぞれの敵と戦っていたのです。お互いに、背後をつかれるのは、何よりも避けたいところでした。

このうち甲斐の武田と駿河の今川は以前から友好関係にありました。今川義元の妻は武田信玄の姉であり、信玄の妻も今川義元が世話をしました。信玄の妻は天文19年に亡くなりますが、その後、信玄の息子・武田義信は今川義元の娘を妻を迎え、武田と今川の結びつきは盤石でした。

しかし相模の北条氏康と駿河の今川義元の争いは根深いものがありました。

そこを信玄は熱心に説きました。

「私が間を取り持ちますので、なにとぞ、お互いの利益のために
手を結びましょう」

「うむむ…」

信玄の熱心な働きのかいあって、ようやく甲斐・相模・駿河三者は同盟にこぎつけます。

天文23年(1554年)、
甲相駿(こうそうすん)三国軍事同盟です。

「われら血縁の上でも、お互いの結びつきを、
強めていきたいですな」

「そうですとも。お互いが親類となれば、
もう戦も必要ありません」

同盟締結に先立つ天文21年(1552年)信玄の嫡男義信(よしのぶ)は、今川義元の娘・嶺松院(れいしょういん)を妻として迎えます。ついで信玄の長女黄梅院(おうばいいん)が、北条氏康の嫡男、氏政(うじまさ)に嫁ぎます。

甲相駿 三国軍事同盟
甲相駿 三国軍事同盟

また北条氏康の娘早川殿が、今川義元の嫡男氏真(うじざね)に嫁ぎました。

つまり、甲斐・相模・駿河が、輪になるように血縁関係を結び、軍事同盟の結束力を強めたのです。その結果、後顧の憂いは取り除かれ、三者それぞれが領土拡大に専念できるようになりました。

とはいえ、あくまで一時的な方便です。後に武田信玄はこの同盟を一方的に破棄して、今川領に攻め込んでいくことになります。

第二回 川中島合戦

弘治元年(1555)7月、第二次川中島合戦は、150日あまりにわたるニラミあいに終わりました。

結局、駿河の今川義元の仲介で、武田・上杉、両者は和睦し、戦は終わりました。

第三回 川中島合戦

弘治三年(1557)8月、三度目の川中島合戦が武田信玄と上杉謙信の間で戦われましたが、信玄はまたもや戦を避けて、戦わなかったので、謙信は兵をおさめて越後に帰っていきました。

謙信、二度目の上洛

永禄2年(1559)上杉謙信は二度目の上洛を果たし、正親町天皇および将軍足利義輝に拝謁します。

「謙信よ、関東管領上杉憲政が越後に逃げ込んでいるとのことじゃな」

「はっ…当国の客人となっておられます」

「左様か。憲政のこと、よく助けてやってくれ」

「ははっ」

足利義輝は、謙信に上杉憲政を補佐せよと正式な御内書(ごないしょ。将軍の命令書)を下します。これにより謙信は関東に出兵する正統性を、将軍より直々に認められたことになります。

また謙信は足利義輝より塗輿(ぬりごし)…漆を塗った車に乗ることや、桐の紋章を使うことなどを許可されました。たいへんな名誉でした。

関東出兵

永禄3年(1560)8月末、上杉謙信は三国峠を越え、はじめて関東に出兵します。

「関東管領上杉憲政が関東に戻る手助けをする」

それが、謙信の掲げた大義名分でした。謙信は越後に亡命してきた関東管領上杉憲政を手厚く保護しており、憲政を補佐せよと、将軍足利義輝の御内書もいただいていました。文句のつけようのない大義名分でした。

小田原城包囲

ひとまず厩橋(まやばし)城(群馬県前橋)に落ち着き年を越した謙信は、北条氏康の城を次々と落としながら関東平野を南下。関東一円の味方を集めながら小田原に至り、小田原城を包囲します。


包囲すること一か月半。

「まだ落ちぬか…さすがは難攻不落の小田原城」

その上、背後にも問題が生じていました。

北条氏康と同盟する武田信玄が、越後国境付近まで迫り、越後を脅かしていました。

また越中で一向宗門徒が蜂起し、越後に侵攻してくるという情報も入っていました。

「仕方が無い。ここは退くしかあるまい」

上杉謙信は小田原城攻略をあきらめ、鎌倉に撤退します。

謙信、関東管領となる

永禄4年(1561)3月16日、謙信は鎌倉・鶴岡八幡宮の社前において、山内上杉氏の家督を相続し、関東管領に就任しました。

鶴岡八幡宮
鶴岡八幡宮

「亡命してきた私を、そなたは客人として篤くもてなしてくれた。
山内上杉の家督は、そなたにそふさわしい。
そして関東管領を継いでくれ」

「そ、そのような滅相もございません」

「いいや、戦国の世にそなたのような義に篤い人物。ほかにいない!」

そんな感じだったでしょうか。謙信の山内上杉家の家督相続と関東管領就任は、上杉憲政のたっての頼みによるものでした。

越後守護代長尾為景の息子として生まれた謙信が、主筋に当たる山内上杉家の家督を継ぐことになったのは、これ以上無い名誉なことでした。

また謙信は上杉政憲から「政」の一字をもらって「上杉政虎」と名乗ります。後には、将軍足利義輝から一字もらって上杉輝虎とあらためます。


知らせを受けた武田信玄は激怒します。

「長尾景虎が上杉の家督をついだ?
関東管領に就任しただと?認めん。
わしは、そんなことは、認めんぞーーーっ」


躑躅ヶ崎館
躑躅ヶ崎館

躑躅ヶ崎館
躑躅ヶ崎館

解説:左大臣光永