蓮如(五) 加賀の一向一揆

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越中一向一揆

文明7年(1475)8月、蓮如と本願寺門徒たちは3年半を過ごした吉崎の地を後に、若狭の小浜(おばま)から丹波・摂津を経て、河内の出口(でぐち)に移ります。

蓮如が吉崎を後にしたのは、自分がいると本願寺門徒と富樫政親の間で争いが絶えないと思ったためでした。蓮如は信仰と政治が結びつくことに何より心を痛めました。蓮如の考えでは信仰は信仰。政治は政治とキッパリ分けるべきものという考えでした。このあたりが鎌倉時代の日蓮と決定的に違うところです。

しかし、蓮如が吉崎を去った後も、北陸各地で守護・対・本願寺門徒の対立が続きました。

文明13年(1481)2月、越中で本願寺門徒の一揆が起こりました。越中砺波郡を支配していた石黒光義(いしぐろみつよし)が、日に日に勢いを増す本願寺門徒(一向一揆)に危機感をつのらせてたのです。

「ここらて潰しておかんと、ためにならん」

そこで石黒光義は、越中における本願寺門徒の拠点である井波瑞泉寺(いなみずいせんじ)に攻め込みます。

「敵が攻め寄せてきた!
本願寺の門徒たちよ、力を貸してほしい」

瑞泉寺住持・蓮乗(蓮如の息子)は本願寺門徒たちに呼びかけ、5000人からが集まり、石黒光義の軍勢を攻め滅ぼし、砺波郡を手に入ました。

「やるのう本願寺は」
「決めた!俺も一向宗に入るぞ」
「一向宗に入れば年貢 払わなくていいんだろ」
「ええっ!じゃあ、おいらも入るぞ!」

こうして本願寺門徒はどんどん味方を獲得して、勢いづいていきます。

長享の一揆

長享元年(1487)将軍足利義尚は応仁の乱で失墜した足利将軍家の権威を回復するため、近江に進撃しました。近江の大名六角高頼が貴族や大寺社の領土を不当に犯していたので、これを討伐しようとしてです。

しかし、義尚に従った大名は加賀の富樫政親だけでした。富樫は前年、本願寺門徒の協力で競争相手である富樫幸千代を倒すことができましたが、その後は本願寺門徒の勢いに恐れをなし、本願寺門徒に弾圧を加えるようになっていました。

そこで将軍足利義尚に近づき、加賀一国を支配し本願寺門徒を追い出すことを認めてほしいと、そのためにまずコビを売っておこうという考えで、足利義尚の近江出陣に協力したのでした。

しかし、富樫政親が近江遠征に出かけている間、加賀国内はとんでもないことになっていました。本願寺門徒たちが、富樫の一族である富樫泰高(とがし やすたか)をかつぎ、加賀国内を制圧したのでした。

ちなみに富樫政親は応仁の乱において東軍方であり、富樫泰高は西軍方でした。応仁の乱そのものは10年前に終結していますが、応仁の乱の余波が、いまだにこうして、続いていたのです。

「大変だ!」

すぐに富樫政親は加賀国に戻り、事態の収集をはかろうとしますが…

翌長享2年(1488)、加賀・能登・越中などの本願寺門徒たちが20万の大群で富樫政親のたてこもる高尾城に押し寄せました。

わあーーーーーー

わあーーーーーーーーーー

「もはや…これまで」

富樫政親は自害しました。長享2年(1488)長享の一揆です。

「なに!富樫政親が一向一揆に滅ぼされた?
けしからん!」

将軍足利義尚は怒りました。義尚は近江の六角高頼を討伐するため長く近江の陣中にいましたが、その際、もっとも力となって義尚を助けたのが富樫政親でした。その富樫政親が一向宗によって滅ぼされた、となると将軍足利義尚にとって本願寺門徒は敵、という形になります。

すぐに足利義尚は蓮如に対して通告してきます。

「富樫政親を滅ぼした本願寺門徒を破門せよ」

これを受けて蓮如は、

「何も知らない尼・入道まで破門しなければならないとは、身を切られるように辛い」

そう語りました。しかし細川政元が間に立って、将軍足利義尚と蓮如の間を取り持ちました。これにより、蓮如はただ門徒を叱るだけで済まされることとなりました。その後、足利義尚が近江の陣中で没したため、本願寺門徒破門の件は棚上げとなりました。

しかし、その後も加賀を中心に本願寺門徒を中心とした「一向宗」の勢いは伸びていきました。

「もはや幕府の支配は受けない!加賀は一向宗門徒の国だ」

そんな感じで、加賀には本願寺門徒が在住し、しだいに幕府の支配を押しのけるようになっていきます。この「加賀一向一揆」は上杉謙信や織田信長も手を焼き、加賀は「百姓の持てる国」と呼ばれました。

天正8年(1580)織田信長に敗れるまで90年間、加賀一向一揆は続きました。

ちなみに。

一向宗といえば今日、浄土真宗の別名のように思われていますが、正確には違います。蓮如の時代の「一向宗」門徒の中には、時宗信者もいれば、浄土宗信者もいれば、加持・祈祷といったまじないの類を行う者もいて、ごった煮状態でした。

だからこそ蓮如は釘をさしました、親鸞聖人は「浄土真宗」と名付けられたのだから、浄土真宗が正しい。外の者から一向宗と言われるのは仕方ないにしても自分で一向宗門徒を名乗るのはおかしい。言うなら浄土真宗門徒といいなさいと。蓮如は門徒たちに言っていました。

次回「蓮如の晩年とその後の本願寺」に続きます。お楽しみに。

解説:左大臣光永