蓮如(四) 吉崎退去

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富樫家の内紛

蓮如が越前吉崎に来てからというもの浄土真宗門徒は増え、吉崎は寺町として大いに賑わいました。しかし、いつまでも安泰というわけにはいきませんでした。応仁の乱が北陸にも飛び火してきたのです。

加賀(石川県)では守護の富樫政親と、その弟幸千代(こうちよ)が富樫家の家督をめぐって対立。それぞれ東軍と西軍に分かれて争っていました。この争いはやがて蓮如のいる越前にも関係してきます。

去る文明3年(1471)、越前の朝倉孝景は西軍から東軍に鞍替えしました。そのため朝倉孝景は富樫政親と結び、富樫幸千代や幸千代と同盟する越前の守護代・甲斐八郎と対立するようになります。と言葉だけで言ってもこういう対立関係はややこしいので、図を参照してください。

とにかく東軍に属する富樫政親・朝倉孝景と、西軍に属する富樫幸千代・甲斐八郎の間で対立が深まり、吉崎近辺でもたびたび武力衝突が起こるようになります。

「吉崎も平和ではない」

蓮如上人は争いを避けるため、一時東国旅行をしてやりすごそうとしました。しかし数か月後、上人が吉崎に戻ってくると富樫の内紛はおさまらないどころか、悪化していました。

富樫幸千代方に、同じ浄土真宗の高田派・専修寺門徒が味方していたのです。

「ううむ。まずい。こういうのはまずいなあ」

蓮如上人は信仰は信仰の世界の話であるべきで、政治や戦争と係ることはよくないというお考えでした。ただし浄土真宗の信仰が犯されるような局面においては、断固として戦うべしというお考えでした。

万一武士同士の争いが飛び火してきた時のために吉崎の周りを掘で固め、要塞化します。吉崎はにわかに、物々しくなってきました。「蓮如の教団はついに天下取りに乗り出したらしい」などと不安がる者もいました。そこで蓮如上人は本願寺全体の総意をあらわすため、決議書をしたためました。

「私が吉崎に来たのはひとえに念仏往生をすすめるためだ。領土的野心などは無縁である。吉崎を砦のようにしているのは、万一の被害を防ぐためである」

しかし門徒たちの暴走は止まりませんでした。

「上人さま!専修寺のやつらが富樫幸千代と手を組んでわれら同胞をいじめます」
「今こそ富樫政親殿を支援して、敵と戦いましょう」
「専修寺のやつらは、真宗の教えをゆがめています。そんなヤツら、ぶっ潰さないと」

「ならぬ!他の宗派を誹謗するなどもっての他と、
常日頃言っておろう」

蓮如上人の必死の説得にも関わらず、本願寺門徒たちは富樫政親と結び、専修寺門徒および富樫幸千代らと開戦に踏み切ります。文明6年(1474)7月のことでした。

「あああ…恐れていたことが起こってしまった」

わあーーーー
わあーあーーーーー

戦いの結果…

手に手に武器を取って、敵である専従寺門徒および富樫幸千代軍と戦う門徒たち。結果としては富樫政親方勝利で、富樫幸千代は守護の座を追われました。

「やった!俺たちの勝利だ!」
「南無阿弥陀仏!!」

「あわわ…乱暴はよしてください」

「やかましい!南無阿弥陀仏と唱えさえすれば何でも許されるのだ!」

そんなふうに、本願寺門徒の中には勝利の勢いに任せて略奪行為を働く者もありました。

蓮如は今回の騒動に、ひどく心を痛めます。

「なんたることだ。
このような暴挙、二度と行ってはならぬ
守護・地頭にはきちんと税を納め、多宗派の者と争ってはならない」

文明七年の戦い 下間蓮崇(しもつまれんそう)の陰謀

さて本願寺門徒の協力を得て戦って勝利した富樫政親ですが、しだいに本願寺門徒に対して敵意を抱くようになりました。

「本願寺はほっとくと危ない。どんどん大きくなる。
ここらで潰しておかなくては」

そこで富樫政親は本願寺門徒に弾圧を加えたようです。

弾圧された本願寺門徒たちは、黙っていませんでした。

翌文明7年(1475)6月、

大挙して、加賀の富樫政親のもとに押し寄せます。

「昨年の勝利はだれのおかげだ。本願寺のおかげじゃねえか」
「恩を忘れるとロクないって蓮如さまもおっしゃってたぞ」

わあーーーっ
わあーーーーーっ

しかしこの時の戦いは富樫政親方優勢で、本願寺門徒たちは撃退され、越中に退きました。

「これ以上戦っても勝利するのはムリだ」
「じゃあ、蓮如さまに和睦の仲立ちをしてもらおう」

こういう話になって本願寺門徒たちは蓮如への話の取次を、側近の下間蓮崇(しもつまれんすう)に頼みました。

「うむ…わかった。上人にそう伝えておこう」

この下間蓮崇という男は蓮如に信頼され、重く用いられていました。しかしその権勢を誇り、傲慢なところがありました。

門徒たちの訴えを、まるで違う内容に変えて、蓮如に伝えます。

「越中に逃げ帰った門徒たちですが、再度加賀に攻め込むから上人にぜひ激を飛ばしていただきたい。そう申しております」

「なんと!それはまことか」

蓮如上人としてはそんな話は不本意なことでした。

「しかし…門徒たちがそのように決めたのなら仕方がない。そのようにせよ」

その言葉を蓮崇は取り次いで門徒たちに伝えて言うことに、

「お前たち喜べ。蓮如上人のご許可が出たぞ。徹底して富樫を潰せと!」

「ええっ!本当ですか…
俺たち、戦はやっぱりよくないんじゃないかって話になってたんですが」

「何を言うか!蓮如上人じきじきに、戦えとおっしゃっとるのだ。だから、戦え!」

「わかりました…」

こんな感じで、門徒たちと蓮如の間を取り次いだ下間蓮崇がわざと内容を曲げたために、蓮如上人の意思とはまったく逆に戦になってしまった、という話が言われています(『蓮如上人塵拾抄』)。

まあ間に人はさむロクなことにならんですね。

吉崎退去 河内国出口へ

事の次第はすぐに蓮如上人に知られることとなりました。大津にいた蓮如の息子・順如が下間蓮崇の専横をきき、父に知らせようと大津から吉崎まで飛んできたのです。

「なんと!蓮崇がそのような姑息な真似を…」

この時ばかりは蓮如も怒り心頭に発しました。

「すぐに吉崎を去ります」

ざわざわっ

「上人さま」「上人さま」

驚く本願寺門徒たち。

「このまま吉崎にいては、また争いになります。ここは吉崎を去るにしくはない」

すぐに蓮如は門徒たちに命じて船の用意をさせました。蓮如上人が吉崎を去る。それを聞いて、下間蓮崇はさすがに後悔してきたのか、後でしつっかり謝ろうという考えからか、ひそかに船に乗り込んでいました。

それを発見した蓮如の息子・順如が、

「ここで何をしているかーーーッ」
「あ、あああっ!!」

どかーーーーっ

陸地へ投げ飛ばしました。

蓮如上人は吉崎を立ち去る時の思いを歌に詠みました。

終夜(よもすがら)たたくふなばた吉崎の
鹿島つづきの山ぞ悲しき

海人(あまびと)の炬火(かがりび)つてにこぐ船の
行衛(ゆくえ)も知らぬ 我身なりけり

こうして文明7年(1475)8月、蓮如と本願寺門徒たちは3年半を過ごした吉崎の地を後に、若狭の小浜(おばま)から丹波・摂津を経て、河内の出口(でぐち)に移ります。

次回「加賀の一向一揆」に続きます。お楽しみに。

解説:左大臣光永