織田信長(三十一) 武田家滅亡

新府城の造営

天正3年(1575)長篠の合戦で、武田勝頼は織田・徳川連合軍に大敗北を喫しました。

「まずい!これでは躑躅ヶ崎館まで攻め込まれる」

焦った勝頼は、古府中(甲府・躑躅ヶ崎館)の北方15キロ韮崎(にらさき。山梨県韮崎市)の地に、新しい城を築きます。新府城です。穴山梅雪が城の普請にあたりました。突貫工事でした。しかも領民が飢え苦しんでいる所に、強引に人員や資材を徴収して、城を築いたのです。

武田家は信玄の父・信虎以来、古府中(甲府)の躑躅ヶ崎館を居城としていました。居城、といっても躑躅ヶ崎館はまさに「館」でした。天守も無く、質素な造りでした。

「人は石垣、人は城」の言葉通り、信玄は人こそが国を支える一番大事なものと考えていたのです。

そんな父信玄の思いのこもった躑躅ヶ崎館を捨てて、民を苦しめてまで新しい城に遷る…

「勝頼さまは何を考えてるんだ」

「もう食うものさえ無いってのに…」

庶民の恨みの声は巷に満ちました。

天正9年(1581)12月、寒風の吹きすさぶ中、新府城への強引な「遷都」は行われました。

木曽義昌の寝返り

「もはや勝頼になど従っておれぬ」

武田氏の外様の家臣である木曽義昌はかねて織田方から調略を受けていましたが、今回の新府城建造による負担により、ついに決断しました。武田を見限り、織田につくと。その証として、織田方に人質を差し出しました。

織田方にその知らせが届いたのが2月1日。翌2日には、武田勝頼・信勝父子が木曽義昌討伐のために諏訪に進撃したという知らせが入りました。

信濃侵攻

「これを機に、武田を殲滅する」

すぐに信長は諸大名を招集します。遠江からは徳川家康、関東から北条氏政、飛騨から金森長近(かなもり ながちか)、信長の嫡男・信忠も、美濃から信濃に侵攻します。

天正10年(1582)、武田掃討戦
天正10年(1582)、武田掃討戦

「ようやく来たか、この時が!」

信忠は森長可(もりながよし)と団忠直(だんなおただ)を先陣として、すぐに自分も軍勢を率いて岐阜を出陣します。

「ひいい…織田が攻めてくる」
「もう武田はダメだ」

いざ侵攻してみると、武田軍の士気はお話しにならない。次々と織田方に寝返り、あるいは戦いもせずに逃げ出すしまつでした。昨年の天正9年(1581)徳川家康に高天神城を落とされてから、武田家臣団は結束を失っていました。

穴山梅雪の寝返り

その上、武田方にとってとんでもない事が起こります。

「な…!穴山梅雪が裏切りだと!」

穴山梅雪は信玄の姉の子で、武田家臣団の重臣でした。その穴山梅雪が、武田の家名存続と所領安堵を条件に、徳川と内通していたのでした。

もともと穴山梅雪は武田家譜代の家臣として、諏訪家出身の勝頼を軽んじる所がありました。加えて、今回の新府城建造による負担にも反感があったのかもしれません。

とにかく穴山梅雪は徳川方に寝返りました。

穴山梅雪が支配していた駿府城は戦わずして家康の手に落ちました。

まさか、あの穴山梅雪が!ああ武田はやっぱり駄目なんだ…。将兵の間に走る、動揺!

「やむを得ぬ…ここはいったん退こう」

武田勝頼は諏訪から新府へ引き返していきました。

「何だこれは…弱すぎる」

安土で情勢を見守っていた信長は、あまりに武田方が弱いことに拍子抜けしていました。しかし前線で戦う武将たちには、

「何があっても敵をあなどってはならぬ」

そう、書状を送っていました。

しかし血気さかんな信忠は快進撃を続けます。

3月2日、勝頼の弟・仁科盛信(にしな もりのぶ)の守る高遠城(長野県伊那郡高遠町)を落としました。

岩殿山城へ

「これでは新府も危ない。どうにもならぬ」

そう判断した武田勝頼は、新府城に火をかけ、甲府の東・一族の小山田信繁の守る岩殿山城へと落ち延びていきました。

武田勝頼一行、岩殿山城へ
武田勝頼一行、岩殿山城へ

「ああ…なんでこんなことになっちゃったの」

「うう…ううう…」

婦人や子供は裸足で山道を歩き、足から血を流すというありさまでした。

峠道を、小山田信繁に先導されて進んでいく、武田勝頼一行。

「御屋形さま、御一行を迎え入れる準備をしてきますので、
しばらくお待ちくだされ」

「おお、おお…すまぬのう」

こうして小山田信繁は一足先に、岩殿山城に入りました。

武田勝頼一行は峠道で迎えが来るのを待っていました。

しかし、待てど暮らせど迎えは来ない。

「どうも様子がおかしい…」

その時。

ターーン、タタン、ターーーン

前方から銃撃。

「なっ!」

がちゃ、がちゃ、がちゃ…

目の前で銃を構えているのは、小山田信茂の鉄砲隊でした。

「小山田までも…裏切りか…」

ガックリと肩を落とす武田勝頼。

最期の場所・天目山

そこで勝頼は岩殿山城の北方・田野(天目山)という所の民家を仮の陣と定めました。新府を出た時は5・600人からが従っていましたが、次々と逃げて行き、もう41名しか残っていませんでした。

11日朝、滝川一益率いる織田方数千が押し寄せました。41名では、とても勝負にならないです。

しかし。

「武田が最期の意地、見せつけてくれん」

ワァーーーー

各自、死に物狂いで打って出て出ます。

中にも土屋昌恒(つちや まさつね)は、勝頼が自害するまでの時間をかせぐため、狭い峠道で片手は蔦鬘をつかみ、片手に太刀を持って、

「でや」

ぐはっ

「どりゃ」

ぐぬうう

次々と織田方を斬り殺し、「片手千本斬り」の伝説を残しました。

勝頼の嫡男・信勝は槍を振り回して奮戦するも、

ぱーーーん

「ぐはっ」

銃弾を受けた所を、多人数に攻め囲まれ、壮絶な最期を遂げました。

勝頼夫人は、「あなた、お急ぎください。私は一足先に」そう言って自らの胸を突き貫き自害しました。

勝頼夫人が自害したのに続いて、夫人つきの侍女たち16人は次々と淵に身を投げて殉死しました。

そして勝頼は、敵六人を斬り伏せた址、壮絶な討ち死にを遂げたとも、自害したとも伝えられます。享年37。

天正10年(1582)3月11日。

長年にわたって信長を翻弄してきた武田家は、ここに滅亡しました。

家康への接待

天正10年(1582)春、織田信長は武田勝頼はじめ武田一門を亡ぼし、本懐を遂げました。何といってもその第一の功労者は徳川家康と、穴山梅雪でした。

そこで信長は徳川家康には三河・遠江に加えて駿河を与え、穴山梅雪には本領安堵…もともとの領土をそのまま維持することを許しました。

これに対するお礼として、徳川家康・穴山梅雪が安土に来ることとなりました。

「二人を丁重に接待しなければならぬ」

信長はそう言って街道を整えさせ、二人の宿泊地ごとに大名を派遣して、心づくしの接待をさせます。

5月14日。徳川家康・穴山梅雪は近江の番場(ばんば)で丹羽長秀から接待を受けます。

翌15日。安土到着。信長は明智光秀に接待役を命じました。

家康は三日間にわたり、光秀からの接待を受けました。

解説:左大臣光永