武田家滅亡

こんにちは。左大臣光永です。日に日に秋めいてきますね。いかがお過ごしでしょうか?

まずは近日発売の新商品です。

大石内蔵助と元禄赤穂事件(上)オーディオCD版
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いわゆる「忠臣蔵」として有名な「元禄赤穂事件」の前半を語ります。家老大石内蔵助、藩主浅野内匠頭長矩の系譜、刃傷松の廊下、赤穂城引き渡し、内蔵助の山科隠棲、第一次江戸下向。特に、大石内蔵助と堀部安兵衛の関係を軸に語ってきます。お楽しみに。

本日のメルマガは「武田氏の最後」です。

天正10年(1582)3月11日、「戦国最強」とうたわれた甲州武田氏が、甲州天目山のふもと田野村で、滅亡しました。

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長篠の合戦後

長篠の合戦の後も、勝頼の武田家は低迷しました。特に、北条と徳川が手をむすんだことが武田にとって打撃でした。駿河の東からは伊豆の北条氏。西からは三河の徳川氏が攻め立て、武田は追い詰められていました。駿河・遠江の城の多くを北条・織田・徳川に奪われました。

その上、天正8年(1580)4月には勝頼が頼りとしていた本願寺顕如が信長と講和し、大坂から撤退していきました。反信長包囲網の一角が崩れたことは勝頼には痛いことでした。

同年5月15日、北条氏政の弟・氏照が甲斐に侵攻し、武田勢は西原(現上野原)で迎撃しました。ついに甲府盆地に敵の侵入を許してしまったのでした。

甲府盆地に敵の侵入をゆるすのは、祖父信虎が享禄4年(1531)諏訪頼満による侵攻を河原辺の合戦で退けてから、49年ぶりでした。

高天神城の戦い

遠州高天神城は城主岡部元信のもと、周囲を徳川勢に囲まれ、籠城を続けていました。天正8年(1580)10月、徳川家康は高天神城のまわりに6つの砦を作り、高天神城攻略に乗り出しました。


高天神城跡

天正9年(1581)正月、城主岡部元信は、高天神城・それに近くの滝堺(たきざかい)城・小山(こやま)城を徳川方に譲るという条件で、城兵の助命嘆願をします。

この一件を徳川家康は実質的な上司である織田信長に相談しますが、信長の答えは、「否」でした。いわく、勝頼は高天神城に援軍を送るような余裕はない。

見捨てるほかない。同盟者の守る高天神城・滝堺城・小山城を見捨てるなら、頼りにならないひどい当主という噂が広まる。勝頼は追い込まれることになると。

天正9年(1581)3月22日、高天神城は徳川勢の攻撃で、落城しました。城主岡部元信以下、730人はほぼ全員、討ち死にしました。「高天神崩れ」とまで言われる、武田方大敗北でした。翌日、武田の残党を探す山狩りが行われました。

新府城造営

もはや甲府すら安泰ではなくなりました。織田・徳川の連合軍がいつ甲府盆地に侵入してくるかという状況になりました。

武田勝頼は、一族の穴山梅雪の進言を容れて、躑躅ヶ崎館を出ることを決意。甲府より西北に位置する韮崎に城を築きました。勝頼は韮崎の地を、甲府にかわる新しい府中(新府中)にしようとしたようです。

なぜ韮崎なのか?いくつかの理由が挙げられます。

一、韮崎は甲府一国に限ると西のはずれだが、武田の領国(甲斐・信濃・西上野・駿河)の全体から見ると、中央に位置する。いずれの領国にも出入りがしやすく、交通の便がよい。

一、富士川の上流である笛吹川・釜無川に近く、川を使った物資輸送に便利である。

一、古府中(甲府)は三方を山に囲まれ、守るにはよくても町を広げ商業を盛んにするには向いていなかったこと。

一、勝頼の本拠地ともいえる諏訪高遠に近いこと。勝頼の母は諏訪大社の神官の家系の諏訪頼重の娘であり、勝頼は武田の家督を継ぐ以前は10年間、諏訪高遠家に養子に出て「諏訪四郎勝頼」と名乗っていた。

一、近くに武田氏の祖・武田信義をまつる武田八幡宮があるなど、武田氏にゆかりの深い地であること。

…など、いくつかの理由が挙げられます。けして勝頼は、いきあたりばったりで韮崎に拠点を選んだのではないのです。

天正9年(1581)2月より、真田昌幸を普請奉行(工事責任者)として新府城の築城を開始。築城作業は昼夜ぶっ通しで行われ、7ヶ月後の9月にほぼ完成。しかし勝頼はすぐには移らず、12月24日、寒風の吹きすさぶ中、新府城への強引な「遷都」が行われました。

引っ越しが遅れたのは北条氏の家臣・笠原新六郎が内通してきたため、その対応に追われていたせいと思われます。

木曽義昌の裏切り

翌天正10年(1582)、武田信玄の娘を妻に迎えていた木曽福島城主・木曽義昌はかねて織田方から調略を受けていましたが、今回の新府城建造による負担により、ついに決断しました。武田を見限り、織田につくと。その証として、織田方に人質を差し出しました。

織田方にその知らせが届いたのが2月1日。翌2日には、武田勝頼・信勝父子が木曽義昌討伐のために諏訪に進撃したという知らせが入りました。

信濃侵攻

「これを機に、武田を殲滅する」

前々から武田の討伐をねらっていた信長にとって、木曽義昌が内通してきたのは好機でした。信長は諸大名を招集します。遠江からは徳川家康、関東から北条氏政、飛騨から金森長近(かなもり ながちか)、信長の嫡男・信忠も、美濃から信濃に侵攻します。

天正10年(1582)、武田掃討戦
天正10年(1582)、武田掃討戦

いざ侵攻してみると、武田軍の士気はお話しにならない。次々と織田方に寝返り、あるいは戦いもせずに逃げ出すしまつでした。昨年の天正9年(1581)徳川家康に高天神城を落とされてから、武田家臣団は結束を失っていました。

穴山梅雪の寝返り

その上、武田方にとってとんでもない事が起こります。

「な…!穴山梅雪が裏切りだと!」

穴山梅雪は信玄の姉の子で、武田家臣団の重臣でした。その穴山梅雪が、武田の家名存続と所領安堵を条件に、徳川と内通していたのでした。

もともと穴山梅雪は武田家譜代の家臣として、諏訪家出身の勝頼を軽んじる所がありました。加えて、今回の新府城建造による負担にも反感があったのかもしれません。

とにかく穴山梅雪は徳川方に寝返りました。

穴山梅雪が支配していた駿府城は戦わずして家康の手に落ちました。

まさか、あの穴山梅雪が!ああ武田はやっぱり駄目なんだ…。将兵の間に走る、動揺!

「やむを得ぬ…ここはいったん退こう」

武田勝頼は諏訪から新府へ引き返していきました。

「何だこれは…弱すぎる」

安土で情勢を見守っていた信長は、あまりに武田方が弱いことに拍子抜けしていました。しかし前線で戦う武将たちには、

「何があっても敵をあなどってはならぬ」

そう、書状を送っていました。

しかし血気さかんな信忠は快進撃を続けます。

新府城落ち

2月28日、勝頼は上原城を引き払い、新府城に帰還。

2月29日、勝頼夫人は武田八幡宮で祈願します。

「八幡様、どうか武田に武運を」

しかし夫人の願いもむなしく…

3月2日、勝頼の弟仁科盛信の守る高遠城(長野県伊那市高遠町)が、織田信忠(信長の嫡男)によって落城しました。

翌3月3日、勝頼は新府城に火をかけ、小山田信茂のまもる岩殿城(現 山梨県大月市)めざして落ちていきました。在城わずか68日でした。

天正10年(1582)3月、武田勝頼のたどったルート
天正10年(1582)3月、武田勝頼のたどったルート

落ち延びる途中、甲府に立ち寄り、一族の一条信龍の屋敷を宿所とします。そこにかつての甲府の町の賑わいはありませんでいた。甲府の人々は家を焼き払い、逃げ散っていました。

途中、柏尾の大善寺(甲州市)で、親類筋の理慶尼に迎えられます。理慶尼は後に勝頼の滞在記録を書物にあらわしました。

3月4日、笹小峠手前の駒飼宿(甲州市)に入り、ここで小山田信茂の迎えを待ちます。すると、小山田の従兄弟が宿所にきて、まず小山田の老母を引き取りたいというので、そのようにしましたが、小山田信茂は母を受け取ると、笹子峠を封鎖してしまいました。

「小山田までも裏切りか…」

がっくりと肩を落とす勝頼。

勝頼は同行する大竜寺麟岳(だいりゅうじりんがく)に言います。落ち延びて、一族の菩提を弔ってほしいと。しかし大龍寺は、何をおっしゃいます。今更御一門を見捨てるわけにもいきません。この上は天目山で、徹底抗戦しましょう。勝頼はわかったと、一行は天目山を目指します。

天正10年(1582)3月、武田勝頼のたどったルート
天正10年(1582)3月、武田勝頼のたどったルート

新府を出た時は5・600人からが従っていましたが、次々と逃げて行き、もう41名しか残っていませんでした。

11日朝、滝川一益率いる織田方数千が押し寄せました。/p>

「武田が最期の意地、見せつけてくれん」

ワァーーーー

各自、死に物狂いで打って出て出ます。

中にも土屋昌恒(つちや まさつね)は、勝頼が自害するまでの時間をかせぐため、狭い峠道で片手は蔦鬘をつかみ、片手に太刀を持って、次々と織田方を斬り殺し、「片手千人斬り」の伝説を残しました。

勝頼は正室の北条夫人(桂林院殿)に言います。

「お前は小田原に帰れ」

「殿、なにを言われますか。初代早雲以来、弓矢の家に生まれた私が、情けない最期を遂げたとされては恥辱です」

そこで家臣に、最期の様子を伝えてほしいと命じて、自害しました。

桂林院つきの侍女16人も次々と淵に身を投げて、死にました。

そして勝頼は、敵六人を斬り伏せた後、壮絶な討ち死にを遂げたとも、自害したとも伝えられます。享年37。

天正10年(1582)3月11日。

ここに甲斐武田氏は滅亡したのです。

勝頼の首級を前にした信長は、

「日本に隠なき弓取なれ共、運が尽きさせ給ひて、かくならせ給ふ物かな」そう言ったと伝えられます(『三河物語』)。


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いわゆる「忠臣蔵」として有名な「元禄赤穂事件」の前半を語ります。家老大石内蔵助、藩主浅野内匠頭長矩の系譜、刃傷松の廊下、赤穂城引き渡し、内蔵助の山科隠棲、第一次江戸下向。特に、大石内蔵助と堀部安兵衛の関係を軸に語ってきます。お楽しみに。

解説:左大臣光永