織田信長(二十九) 第一次・第二次 木津川口の戦い

第一次木津川口の戦い

その後、信長は破壊された天王寺砦をすぐに再建し、筆頭家老・佐久間信盛を置きます。また本願寺の周りに10の支城を築きます。住吉の浜には和泉水軍を置き、海上警備に当たらせました。

ところが2ヶ月後の天正4年(1576)7月13日、信長にとって予想外のことが起こります。

「む!敵影!敵影!!」
「なに?敵だって?どこの敵だ?」

毛利方の村上水軍が、800艘を率いて瀬戸内海を東に向かってきたのでした。迎え撃つ信長方・和泉水軍は300艘。あわてて出撃し、毛利・織田、双方の水軍は木津川口にて向かい合います。ここに、史上初の毛利・織田の戦いが始まろうとしていました。第一次木津川口の戦いです。

ドーーーン、ドーーーン

ぐはああああぁぁぁぁぁぁぁ

ぎゃああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ

始まってみると毛利の村上水軍は数においても装備においても遥かに勝り、次々と織田方の和泉水軍を打ち破っていきます。毛利方は

ばっ、

炮烙(ほうらく)という陶器の玉の中に火薬をつめて導火線を出したものを放ち、これが織田方の船に着弾すると、

ドカーーン

ボカーーーン

一たまりもなかったです。

ごおおおおおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉーーーーーーーーーー

あちらでも、こちらでも、燃え上がる和泉水軍の船。

「これはッ…とても戦どころの話では無いッ!!」

完全な、織田方惨敗でした。

「やった我らの勝利だ。村上水軍に敵無し!」

ワアアアァァァーーーーーッ

村上水軍は大いに士気上がり、同盟を結んでいる本願寺に食料を運び入れた後、ゆうゆうと引き上げていきました。これが天正4年(1576)7月13日。第一次木津川口の戦いです。

第二次木津川口合戦

二年後の天正6年(1578)になっても、毛利と織田の争いは続いていました。

毛利方は上月(こうづき)城を奪取し、織田方の別所長治(べっしょ ながはる)や荒木村重を離反させ…

勢いづいていました。

「よし。ここで再度本願寺を助け、信長に打撃を与えよう」

天正6年(1578)11月。

毛利輝元は、本願寺への物資搬入を行うため、毛利・村上水軍600艘を木津川口へ向かわせました。しかし信長、今度は毛利の動きを読んでいました。

「二年前のようにはいかんぞ…」

信長は伊勢の水軍大将・九鬼嘉隆(くき よしたか)に銘じて、二年がかりでとんでもないものを作らせていました。

大砲三門と無数の銃をそなえ、船全体を鉄の装甲で覆った、六隻の「鉄甲船」です。長さ23m、幅13.7m、5000人を乗せることができたと伝えられます(『多聞院日記』)。

「な、なんだあれは!」
「でかい!!」

「うろたえるな。でかくても焼き払ってしまえばよい」

ひゅん、ひゅんひゅん

毛利方は火矢を放ちますが、

カン、コン、コン

「なっ」

「はじき返された!」

「砲門を開け」

ガゴゴゴゴコー

鉄甲船の横ッ腹にしつらえてある三門の砲門が開き、黒々とした砲門が姿を現し、

ドゴーーーーン

ドゴーーーーーーン

ドゴーーーーーーーーン

ぎゃあああああ

毛利方はなす術もなく、新兵器・鉄甲船の前に蹴散らされた

…というのが従来の定説でしたが、

実際、鉄甲船なるものはあったのか?
言われているほど毛利が惨敗したのか?

諸説あって、わからない所があります。

そもそも、こんなスゴい兵器を造ったのに、その後一度も使われた形跡が無いのがおかしいですね。

えっ、あの鉄甲船はどこに行っちゃったの?ていう…

とはいえ、実際にこの第二次木津川口の戦いの後、織田方が瀬戸内海の制海権をにぎり、毛利方は以前のように本願寺に補給ができなくなりました。

だから、織田方はたしかに勝利はしたんでしょう。

しかしそれがどの程度のものか、

となると、よくわかりません。

本願寺退去

天正8年(1580)閏3月。

本願寺と信長の間に和睦が成立しました。条件は本願寺が大坂からの退去。はじめ7ヶ条でした。

しかし…一言で大坂退去といっても、スムーズにはいきませんでした。

「これ以上戦っても意味はない。条件を受け入れて信長と和睦すべきである」
「何を言いますか。信長とは徹底して戦うべきです」

門主の顕如と、長男の教如が和睦・抗戦で意見が分かれました。

議論は並行線をたどり…

顕如はとうとう抗戦派を説得できないままに大坂を去って、紀州・鷺森(和歌山県)に移ります。抗戦派は教如以下、石山本願寺にたてこもり信長軍と徹底抗戦の構えでしたが、やはりどうにも勝ち目がなく、大坂を去ることとなります。

しかし、和睦派の顕如・抗戦派の教如の対立はその後も根強く引きずり、西本願寺・東本願寺の分裂へとつながっていきます。

この頃、原因不明の火事が起こり、石山本願寺の堂宇はことごとく燃えてしまいました。

解説:左大臣光永